オヤジのお土産

故郷の島は、大昔から半農半漁、鯨漁など海主体の産業だったと推測する。 その漁師の網により石炭が発見されたいへん栄えた。 まさに近年有名になった軍艦島同様である。 子供の頃は炭鉱一色の頃で、その炭鉱閉山後の町には産業という産業もなく、ある程度の規模の企業一社と公務員しかいないと思っていたが、実際には、社会の仕組みとして、商店もあり、大工、電気工事など暮らしに直接関係する仕事もあり、鯨漁はすでになかったが、半農半漁的な昔ながらの一次産業もあった。 私のオヤジは町役場勤めで、毎日判を押したように六時前に帰宅する、平凡というかエキサイティングなイメージはなかった。 兵隊になることを目指したが、こと半ばで終戦。 目標を無くした状態での職探しだったようである。 今にして思うと、役所の仕事は地味ではあるが、法令や条例を正しく運用し、住民に混乱を与えず、暮らしをサポートしなければならない、知識と意識の高い職業だったようである。 戦後のドサクサの中では、恐らく素人集団だったであろうところから、コツコツと勤め上げたことになる。 その後の我が家での話の流れやエピソードからして、財務経理、土木建築、産業育成のような仕事をしていたのだろうと思われる。 特に産業育成の頃には我々家族にも影響を与えた。 我が家はオヤジの前の代までは半農半漁農家で、私が物心付いた頃は、リアス式海岸の地形の猫の額のような段々畑で、祖母の野菜栽培の畑か荒れ地状態の空き地かであった。 オヤジは、そこに、温州みかんや柑橘類、栗、梅などの果実、傾斜には杉、ヒノキなど様々な植物を植えた。 植えるだけでも大変だった記憶があるが、恐らく町おこしを考えての実験だったのであろう。 その後広まらなかったところを見ると、町おこしのネタにはならなかったようであるが、お陰でその後、柑橘類や栗などは私の結婚後も時期が来ると送ってもらえていた。 また、出張も多かった。 特に、長崎市や東京などの役所関連、各地の離島や山間部、各地の産業の視察などの出張だったようである。 そう言えば、茨城県東海村の出張も数回あったような…。 原発誘致の話もあったのだろうか。 つい最近、近くの島で洋上風力発電の利権問題がクローズアップされていたが…。 故郷の町の繁栄にはいまだに興味もあり意見もあるが、利害が絡むと話は難しく、遠くから故郷の将来を思うばかりである。

私にも経験があるが、出張というのは、相手が会いたがっている出張は楽しいが、こちらが会いたがっている出張は相手にとってはウェルカムではないことが多く。 たいへん気を遣うものである。 どう考えても、オヤジの出張はたいへん気を遣うものだっただろうと思うのだが、利害関係の少ない公務員の場合は気楽とも言える。 ただ、その出張の帰りにはいつも何かお土産を買ってきていた気がする。 県内の時は、金銭餅(キンセンピン)、月餅、チェリー豆、九十九島センペイなど。 県外だと、にわか煎餅、雷おこしなど。 子供の頃はお菓子が一番だが、そうでなくてもうれしかった記憶はある。 たまに、佐世保の商店街からレコードなどを買ってきた。 のちの自分の経験から想像するに、お土産を買うアイデアがなかったり時間がなかった時の“苦肉の策”だったのかもしれない。 自分が好きな演歌の村田英雄ではなく、決まってダークダックス! オヤジにとってはちょっとハイカラな選択肢である。 お陰様で、うちにはダークダックスのレコードが数枚あったし、メンバーはゾウさん、ゲタさん、マンガさん、パクさん、慶応大学のコーラス部だったと今でも覚えている。 ひょっとしたら、今も続く私の趣味の音楽はここから影響を受けているのかもしれない、と思うとダークダックスにも感謝である。 

退職後も京都までの出張?旅行?が定期的にある私は、やはりお土産を買いたくなる。 最近の定番は漬物であるが、食卓の彩りになるものを探している気がする。 殻の中の現役生活の頃、米国系外資の会社に21年間籍を置き、偶然か当然かは不明であるが、ちょうどその21年間が子供と一緒にいた時代となった。 当時の米国人の上司は第一子誕生時の私に、「子供は人生の中で一瞬一緒に住むことが許された訪問者だよ。 その時間を大切に…。」と微笑みながら話してくれたが、長いようで短い! その通りであった。 東京近郊への外出も多々あったが、私の場合は海外出張、特に米国出張が年に数回はあった。 最初の頃は、帰りの空港免税店などで家族が喜びそうなものを買っていたのだが、徐々に仕事の合間に現地のショッピングモールや大型スーパーで購入した。 米国の玩具やゲーム、縫いぐるみやTシャツなど。 ただ、決まって購入したのはローストピーナツとビーフジャーキーだった気がする。 ビーフジャーキーは要注意で一度日本に持ち込む際に検疫で没収されたことがあった。 検疫マークが必要だったようだ。 忘れられないのはピエロのパペット(手人形?)。 もちろん幼かった娘へのお土産だったのだが、すぐ飽きるだろうと考え、その時にはゴルフクラブのヘッドカバーとして自分のものにしようと目論みながら購入した。 当時縫いぐるみのようなヘッドカバーが流行り始めていた。 しかし、運悪くお気に入りとなってしまい「ピエロのピーちゃん」という名前まで付けて、外出時には必ず連れていく。 その後「ピーちゃん」は、訪問者がいなくなってからも部屋の守り神状態で飾ってある。 そのうちに、技術革新でクラブヘッドはどんどん大きく変化しこぶしよりも大型化して、目論み通りの活用は残念ながらなかった。 私は、幸か不幸かレコードを買うことはなかった。 GSブームの頃の私にダークダックス。 ミスチルやSMAPの頃の子供らに…? 買わなくてよかった!

オヤジのDNAは息子へ…と書きたかったのだが、よくよく考えてみると、買い物を嫌いな人はいないような気がする。 その上、誰かを笑顔にできるかもしれない行動は、誰でも好きであり、その時のリアクションが楽しみである。 よって、出張でお土産を買って帰ること自体は、オヤジと私の血のつながりから発生していることでもなんでもないのであるが、私はそれでもこのことを書きたい。 母親が亡くなった時に年上の一親等がいなくなり、私と一親等の関係にあるのは子供たちだけであると思った記憶がある。 私よりも年上の一親等から私が与えてもらったもの、その中でも楽しかったものや私にプラスに働いたもの。 私はそれと同じくらいのものを私よりも年下の一親等らに与えているのだろうか? 貸し借りの話ではないが、そんな一親等間の駅伝のような襷わたしの中で、私はチームの流れを変えずに駆け抜けようとしているだろうか? そんなことを考えてしまった「オヤジのお土産」である。 撮影のために購入したグッズは私の胃の中で…、月餅はズシ~ンと重く、ローストピーナツはサラッと軽い気がする。 単なる物理的な重さではなく、なんとなく時代背景の重さというか、やはり日本人にとっては昭和の襷は重いのだろう!


コメント

  1. 匿名5/22/2026

    勤務して20年くらいは、出張の際職場に土産を買って帰る習慣があったように記憶していますが、僕は実行したことなかったような気がします。父は、決まって、各地のこけしを買って帰ってきましたね。海外出張、インドは、象牙の装飾品や、ご禁制品の石、人形など、中国は、掛け軸と、書、これらは箱ののりからウジ虫が発生しえらいことに・・・食べ物はなかったなー。僕自身は、機内販売で目についたものが多かったように記憶しています。好物のレミー、シーバース、子供にはヨックモックの玩具、妻にはこじゃれた小物、免税店化粧品、香水、現地はご当地名物のクッキー、ODIVA・・工夫はなかったような(笑)

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