東京で3時間程時間があるときに何をするだろう? 学生時代ならパチンコ、つい最近の私の傾向ではブログの記事に繋がる「東京を歩く!」となるのであるが、前回歩いた時に近くにあることは知りながら、パスした場所があった。 JR千駄ヶ谷駅のそばの日本将棋会館である。 2年前新しいビルに移転していた。 すでに記事にした同じような場所を歩くことになるため、今回は電車を使って数か所訪問しながら記事にしようと考えた。 その最初の場所が日本将棋会館、将棋界の総本山である。 秋葉原から、JR総武線(黄色の電車)に乗り換えて新宿方面。 最近は東京で電車に乗ることも少なくなっており、地図感が鈍っている。 平日の日中ということでさほど混雑はしておらず、外国人観光客らしき人々も疎らな感じであるが、スマホを操作しながらノロノロ歩く人が多く、年寄りの不要な正義感を押し殺しながら進む。 千駄ヶ谷の駅からは数分で目的地に到着した。 有名な棋士たちと同じ空気を吸いながらの施設見学を期待したが、本館内部には一切入れず、同じビルに別の入口があり、ショップ、将棋道場、喫茶などがあった。 新しくきれいではあったが、棋士の世界とは違う空気で、最近盛り上がっている将棋界、さぞ活気があるだろうと想定していたが何事もなく、将棋好きも普通の訪問者も同様で、心躍らない訪問となった。 折角の訪問なのでショップ内を探索し、ボールペンを購入した。 440円也。 普通の訪問者である! それならもう一つの総本山候補、囲碁の日本棋院東京本部に行ってみることにした。
JR総武線で2駅戻った市ヶ谷である。 総武線の北側は大学が密集しているが、電車にはなぜか制服を着た高校生も多い。 文教地区なのだろう。 日本棋院東京本部も駅からすぐの場所にあった。 こちらは古いビルである。 一階には囲碁道場らしきスペースと大画面スクリーンがあり、いかにも囲碁の総本山らしい。 地下一階には無料の展示館があり、囲碁の歴史を再確認でき十分楽しめた。 始まりは紀元前、紫式部も嗜んだ平安、近代囲碁の始まりの江戸、低迷した明治。 新聞と電波により復権した昭和の展示品は懐かしかった。 二階に上がるとショップ。 やはり、折角来たので何か買おうと見ていると、書籍類が充実している。 これだけ沢山の囲碁専門書が並ぶ本屋さんは見たことがない。 最近の私の囲碁同好会での成績は、多少低迷しており、優勢の一局を終盤で落としてしまうことが目立ってきた。 つまり、昇段後は実力伯仲する相手との対戦が多く、軟着手には鋭い反撃や予想外の鬼手(私が打たれた経験のない手)が飛んでくる。 囲碁の一局には、序盤の構想力、中盤の互いの思惑がぶつかる戦術力、終盤の取るか取られるかの読みの力、が必要な様である。 しかも実力伯仲になると、それらの中の自分の得意な“力”を自覚し、それを頼りに不得意分野を乗り越えることになる。 私はたぶん“読みの力”なのだろうが、読みに入っていない私にとっては“鬼手”を打たれてヒェ~!となるのだ。 しばらく悩んだ挙句、購入前の囲碁グッズを元の場所に戻し、「基本手筋事典」という分厚い本を購入した。 やはり、日本棋院東京本部も二階より上の階にプロ棋士の空間があるようである。
将棋会館同様、プロの対局は賞金の掛かった真剣勝負である。 興味本位の訪問者が同じ空気に触れることは難しいのである。 とりあえず総本山の雰囲気を味わいながら、未来につながる書物もゲットできて満足であった。 展示館で興味深かったのは、徳川家康の囲碁将棋との関りである。 囲碁将棋を奨励し、自分でも大名たちとの社交の場として囲碁を用いていたらしい。 そんなわけで、次の総本山は家康つながりで、徳川将軍家の菩提寺である増上寺にすることにした。
増上寺は、ホームページによれば浄土宗の七大本山の一つのようである。 意外だったのは武家のトップの菩提寺が禅宗ではなく、他力本願の浄土宗というところである。 戦乱を制した後の将軍家ならでは?かもしれない。 増上寺と言えば東京タワーとの新旧コントラストの写真が鮮やかである。 増上寺の敷地内には徳川将軍家墓所があるが、当時はもっと広大な敷地だったらしく、東京タワーは将軍家墓所の一部に建てられたようである。 芝公園もプリンスホテルも旧敷地内ということである。 日本棋院の市ヶ谷からは、都営地下鉄新宿線で2駅、神保町で同じく都営地下鉄三田線に乗り換えて4駅で、御成門に到着する。 地図で見ると、御成門と次の駅の芝公園、それから浜松町寄りの大門は増上寺の三門まではほぼ等距離であり、迷うところであった。 御成門は増上寺の裏門として作られたが、将軍が「御成り」になる門だったらしく、正しい選択だったかもしれない。 都営地下鉄は営団地下鉄よりも料金が高くポピュラーでない駅名も多いことから、ちょっと敬遠していたが、何かハイクラスなイメージがするのは私だけだろうか。
乗り換え時間を含めて約20分で到着した。 入口の三門はあいにく工事中であったが、工事中の門を抜けるとすぐに本堂と東京タワーのおなじみの風景。 外国人観光客が多く、至る所が撮影スポットとなっていて歩きにくいが、境内は広々として苦にならない。 建物自体は東京大空襲のあとの再建であるため、木造の重厚感はなく、鉄筋コンクリートの人工物である。 しばし散策した後、東京で最も古いお寺はやはり浅草寺だろうと、浅草に向かうことにした。
増上寺の参道を逆に数分歩くと、参道の入口大門に到着する。 これも都営地下鉄浅草線大門から9駅、こちらは観光客かどうかは不明だが、停車するたびに外国の方が増えていき、約15分で浅草に到着する。 地下鉄駅の階段を上ると、すでにごった返し状態。 ほとんどは外国人観光客のようで、まっすぐ歩くこともできない。 参道入口の総門はあの有名な「雷門」、正式名称は風雷神門とのこと。 食べ歩きの人々をかき分けながら参道を歩き、本堂と五重塔が見える広場まで到着する。 人だらけである。 私もそうであるが、知らない所に観光に行くと、交通の便のよい所の狭い範囲で観光、文化、飲食を手っ取り早く楽しみたいものである。 そういう意味では浅草はコンパクトに東京を楽しめるスポットなのだろう。 そして、観光の証拠写真とアバウトな記憶を短期間で詰め込むのだろう。 今日の総本山巡りは、浅草(あさくさ)の浅草寺(せんそうじ)で終着である。 乗り換え、散策時間も含めて約3時間であった。 ところで、地名と寺院名が違うのはなぜ?という疑問が湧く。 調べてみたが、腑に落ちる解が得られなかった。
私のアバウトな理解では、「せんそう」寺の方が「あさくさ」よりも古い。 もともと「あさくさ」には様々な漢字が充てられ、やっと定着した漢字が浅草寺と同じ漢字の「浅草」だったということのようである。 ついでに、慣習的には地名や神社名は訓読み、寺院名は音読みが一般的なようである。 清水(きよみず)寺? 富士山浅間(せんげん)神社? そう言えば、田舎の神社は浅間(あさま)神社であった。 結論的に思うことは…、人間が関わって長い期間を経て形づけられたものは、ほとんど理屈で裏付けされるものではなく、アバウトでちょうど“いい加減”なものなのだろう。 そのアバウトさが人間らしいとも言える!






浅間山は「あさま」と呼ぶのに、富士山の浅間神社はなぜ「せんげん」神社と言うのでしょうか? その疑問には、まず「あさま」の語源を調べてみることにしましょう。語源には色々な説がありますが、寺田寅彦博士の説が面白い。曰く:《「古語でアサマは火山を意味したのではないか」という。日本の火山の名称には「ア行音+サ行音(浅間、阿蘇、有珠、恐、恵山、雲仙、等)」という「音の類似」が多くある。》他には:《「アサマ」はアイヌ語で「火を吹く燃える岩」の意味から名付けられた。と言う説。》また南方説で:《マレー語では、「アサ」は煙を意味し「マ」は母を意味するので、その言葉を火山である富士山にあてたとする説。》などなどです。いずれも「浅間(アサマ)」は古来「火山」を意味したようです。それでは「アサマ」がどうして「センゲン」と呼ばれるのか? これは、“元来、浅間は「アサマ」読みだが江戸時代に「センゲン」と読みならわされたようです。「仙元」とも書いたようで、「浅間嶺」にある浅間神社も以前は「仙元神社」とか言われていたとのことです。「センゲン」と呼び始めたのは鎌倉から江戸時代にかけて、中国文化の影響が大きく、熟語をむやみに「音読み」にしたためと言われています。山や地名だけでなく、学者や芸術家などもこぞって名前は支那くさい名をつけたからでといいます。そう思うと「アサマ」でも「センゲン」でもなんとなく納得が出来ますが、読みはやはり「訓読み」で「アサマ」の方が私は好きです。・・・
返信削除と、学者は述べておられます。静岡にもあったけど「せんげん」だったね。