好文木

今季は異変が起きているようである。 日本サッカー界である。 J1リーグは鹿島アントラーズ、J2リーグでは水戸ホーリーホック、関東大学では筑波大学が優勝、高校サッカーでは鹿島学園が準優勝、クラブユース(U-18)では鹿島アントラーズユースが優勝である。 茨城県は、J1リーグの鹿島アントラーズや、高校野球の常総学院などはたまに全国区になるが、スポーツに限らず全国区として誇れるものは少ない気がする。 今回はその数少ない茨城県の全国区の話をする。 水戸徳川家である。 水戸にはこれまでも、観光、講習や証明書発行、ここ数年ではブログのテーマとして偕楽園や千波湖周辺を訪れているのだが、水戸徳川家の城下町と言う視点で、紹介してみたい。

水戸徳川家のことを調べると、家康の11男の初代の頼房、義公、烈公と言われた二代目の光圀、九代目の斉昭、斉昭の息子の徳川慶喜くらいしか登場しない。 それ以外は、パッとしなかったり、早死にしたりである。 水戸徳川家は当然のことであるが、北の監視役という立場で、江戸に近い御三家ということで、大名の中で唯一参勤交代が免除、つまり当主は江戸住まいであった。 それがゆえに、江戸幕府には存在しない役職であるが、「天下の副将軍」と実際に呼ばれていたようである。 光圀といえば、「水戸黄門」と大日本史の編纂が有名であるが、隠居後とは言え、「天下の副将軍」はお供二人を引き連れての全国の悪政を正す旅は無理である。 せいぜい、鎌倉、日光、千葉程度、江戸と水戸の往復や茨城県内の視察程度のようである。 大日本史の編纂は、財政難が続いた水戸徳川家において明治時代まで続く一大事業となったが、その始まりは光圀であり、藩の歳出の三分の一を当てたようである。 光圀は全国から学者を集めた。 その中に助さん(佐々祖淳)、格さん(安積澹泊:あさかたんぱく)のモデルになる人物は存在したらしい。天皇家の歴史を書き記したものと思っていたが、千年近くの天皇やそれに関わる各時代のことを記された文献を解読し、つなぎ合わせる事業であったようで、途方もない作業である。 おのずと、神道、儒教、ナショナリズム的思想の色合いが強まる。 代々、水戸藩では梅文化が栄え、至る所で見かける。 学問と梅のつながりは古代中国まで遡り、今でこそ桜であるが、日本でも古くから梅は詩歌の材料になっており、「好文木」と呼ばれた。 光圀のペンネームも「梅里」である。

義公光圀から百五十年後、烈公斉昭の登場である。 読んで字のごとく“苛烈な性格”と表現されている。 実際には「一張一弛(いっちょういっし)」の理念のもと(「張」弓を伸ばし、「弛」弓を緩める)、教育に力を入れ、全国最大級の今でいう総合大学である弘道館を、領民と共に楽しむ偕楽園を、作っている。 弘道館記には、五つの建学精神が刻まれている。 「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問・事業一致」「治教一致」。 史実に照らしてみても「水戸学」と呼ばれてその後の日本に大きな影響を与えている。 弘道館の玄関正面の掛け軸には勇ましい字体で「尊攘」と掲げられている。 幕府の政策にも厳しく意見し、尊王攘夷思想に影響を与え、各藩挙って水戸藩の教育思想を取り入れた。 思想とも深く関係しているが、攘夷のために必要となった金属はお寺の鐘を再利用し、仏教を弾圧した。 結果、安政の大獄で蟄居させられることになり、大老井伊直弼との軋轢を生み、その暗殺には水戸藩が深く関わったとされている。 偕楽園にある別荘は領民も含めて皆に解放された。 その名は「好文亭」と言う。 斉昭七番目の息子が徳川慶喜であり、小さい頃から将来有望で、徳川御三卿の一橋家へ養子、その後第十五代将軍となる。 当然、弘道館で文武に励み、水戸学を学んだはずであり、大政奉還後には弘道館で謹慎したらしい。 私が子供の頃から親しんだ日本史では、徳川幕府を戦わずして投げ出した人というイメージがあり、水戸学をベースにした教育で
幼少期を過ごした人としては違和感がある。 しかし、見方を変えると、無血開城は流れからしたら正しかったのかもしれない。 “尊王”はありであるが、時の政権としては“攘夷”はできなかったのであろう。 大政奉還後の薩長の無理やりの進軍は想定外だったかもしれないが…。

 水戸城は天守閣がないこともあり、余り意識したことがなかったが、今回改めて展示館を訪れ現地を見てみると、北と東は那珂川、南に千波湖に囲まれた小高い崖の上にある。 確か千波湖は人工湖と聞いたことがあり、今回その城下町作りを納得できた。 やはり北の見張り役である。 その水戸徳川家の広大な城下に、現在は県の重厚な施設が立ち並び、県庁所在地としては小規模な都市だが、県庁所在地にふさわしい風格がある。 最近復元されてきている二の丸の白壁をあとに、北へのドライブを楽しむことにした。 北へ向かうとその先は福島県につながるのだが、JR常磐線、常磐高速、国道6号線は、海沿いにいわきへと向かい、JR水郡線(水戸~郡山間)、国道349号線、阿武隈山地に突入すると郡山へと向かう。 今回は水郡線ルートである。 目指すは常陸太田市。 市町村合併で、その北端は福島県矢祭町との県境となる縦長の市で、海岸沿いの那珂市、日立市、高萩市、北茨城市と接している。 水戸城の外堀のような那珂川を渡ると那珂市である。 市街地以外は、田んぼ、畑、林とそれほど特徴のない風景を20分ほど走っただろうか。 次の一級河川の湾曲した珍しい橋を通過する。 久慈川である。 ここからが常陸太田市、今日の最終目的地である。 程なく、道の駅「ひたちおおた・黄門の郷」に到着する。 常陸太田市紹介を兼ねて探索すると、特徴のあるものを発見した。 「凍みコンニャク」である。 冬場の夜間の冷え込みを利用してこの地域では、コンニャクや干し芋を夜間のうちに外気にさらすことで、乾燥を促進した干し〇〇は「凍み〇〇」という名物である。 常陸太田市は「黄門の郷」である。 光圀の隠居後の別荘「西山荘」がある。 
隠居後光圀は西山荘で大日本史の編纂を行ったということである。 藁ぶき屋根の門構えとその奥の二軒の建物自体が展示物ではあるのだが、それ以外の展示品や新たな情報はなく、入場料1500円とガソリン代が後味悪く頭から離れない。 ちなみに、「黄門」とは天皇制の位で、中納言の別名ということである。 
 
今回の水戸徳川家観光の最初の地点は、偕楽園の脇にあるがこれまで立ち寄ったことの無かった常磐神社であった。 境内に義烈館という資料館があり、水戸徳川家のお参りと、義烈館の展示品を見学する予定であったが、義烈館は団体予約のみの受け入れで、個人の飛び込みでは閉鎖中。 残念ながら予定が半分になったと思っていたが、興味深いものを発見した。 これも常磐神社の境内にある「東湖神社」である。 水戸学の中心的存在であった藤田東湖を祀る神社である。 大日本史と水戸学が、水戸徳川家及び水戸城下にそれほどの影響を与えたということを改めて感じた。 徳川幕府を返上し、尊王の政治体制を実現することは、ある意味では理解できるところであるが、なぜそこに行き過ぎた手段である攘夷を結びつけたのかが問題なのである。 「外国人排除」問題は今も続いている。 当時同様、問題のすり替えが、もともとの思想が捻じ曲がった形となって新たな潮流を生む
ことを憂うばかりである。 そして、教育の重要性は今も昔も変わらないと改めて思った。 水戸徳川家で愛されてきた「好文木」のことを改めて思った。


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コメント

  1. 匿名1/30/2026

    関東に住んだことのある、関西人として、また、仕事で、欧米系、大陸系と取引を重ねた経験からの思いですが、どの国、地域も、外国人に対して、また自国民でも、なじみのない人との距離感を縮めるとき、厳然と自分と家族を守るための基準や、ルールがあると感じています。これは、土足で他人の領域に入らないという良識にもつながっていると思います。振り返って我が国におけるおもてなしの精神は、このボーダーが性善説により希薄であるのではと思っています。厳然と対峙し公平に判断する・・これ日本人にできるかなー

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