8回目の午後

 がん発覚からほぼほぼ一年が経つ。 摘出手術で二週間、その後の血液検査で完全摘出ではないとの判断で経口抗がん剤治療開始、血液検査と頃合いを見ての放射線画像確認を継続し、今もその延長線上ではあるが、二週間に一度の点滴抗がん剤治療と経口抗がん剤を併用している。 点滴抗がん剤治療は、所要約四時間以上必要だが、腎臓に負担をかけないように、点滴での水分補給も含めると、肝心の抗がん剤一時間半、その他約三時間である。 その間は点滴の針で片手が使えない状態で、水分補給1リットル以上、昼食、頻繁に看護師さんの点滴の確認と面談。 備え付けのテレビは音を出すことができず、イヤホン使用か無音声。 通常は無音声の大谷君の大リーグを映しているが、それ以外は時間を持て余す。 幸い、副作用も少なく普通に生活できていて、冗談では「この治療なら一生続けられます。」と言ってはいるが、8サイクルくらいからその医療費は年間所得税控除の金額に達するはずで、内心では冗談は言えない。 今回がその8サイクル目であったが、金銭面以外で結構厳しかったのが、太くて長い点滴針に適した静脈探しで、血管が細く硬くなって来るようである。 やはり、身体も拒んでいるのだろうか? がん治療の先輩によれば、難しくなると肩口の胸寄りに専用の点滴挿入口を埋め込むようである。 激しい運動はできなくなるようで、ゴルフプレイの許可をもらうのに時間を要したとのこと。 治療のやり方はあるが、残念なことに治療と楽しみの範囲は二律背反のようである。 無事に血管探しも終えた8サイクル目の点滴が始まった。 今回は最近ハマっている短編小説集を読むことにした。 アイデアは大当たりで、合間合間に三作品読むことができたのだが…。

ちょうど無音声のテレビの画像に、吉行和子死去のニュースが流れていて、短編小説の作者の中に、お兄さんの吉行淳之介の作品があり、名前は知っていたが作品を読んだことがなく、早速読んでみることにした。 「寝台の舟」、21ページの作品である。 主人公が作者かどうかは不明だが、その主人公の教員時代の話である。 古本屋で手にした西洋の童話集の中に、「寝台の舟」という作品があり、大きな舟の形をした寝台、大きなゆりかごのようなもので眠りにつく場面から始まる。 読み終わってから原稿作成まで時間が経過したこともあり、作者の現実の世界か、夢の中の世界かは定かでなくなってきているが、この童話集が最後まで、寝台の脇の椅子に置かれている場面が繰り返されるあたり、なんとなく夢の世界をイメージさせる。 驚かされたのは、その“夢の世界”の内容である。 男性同士の同性愛のストーリーであり、しかも艶めかしい肉体関係もあらわに表現されている。 そんな短編を読み進めながら、目の前を看護師さんたちが行ったり来たり、また、点滴の具合を点検に来たり、体調の変化の確認に来たりする。 その都度、現実の世界と小説の世界が交差する。 なんとなく平常を保ちながら…、中身を
悟られないようにしながら…。 私は表面的にはジェンダーフリー擁護に一定の理解を示したいのだが、内心では肯定しきれていない。 私の中では、それは根っからの巨人ファンが、にわか阪神ファンになろうとしているような…。 主人公は同性愛者ではなく、ただの好奇心であるが相手の心の状態に“情”が移っていく。 相手は、女性らしい容姿や振舞いに年齢的なものを感じつつ、主人公から離れていく。 何とも言えない後味の悪さ…。

次に読んだのは、「補陀落渡海記」井上靖作、42ページの作品である。 あの「天平の甍」の作者であり、同様に重厚な歴史短編小説であるが、記録に残っている史実を深堀した内容である。 和歌山県の那智にある「補陀落(ふだらく)山寺」というお寺の住職が、この世で悟りを開き、一人小舟に乗り、中の囲いに封鎖され、海の向こうにあると信じられていた観音浄土に旅立つというもの。 そのこと自体を「渡海」と呼ぶようで…、友人にも国会議員芋にも…、崇高な苗字だったのだ。 主人公の金光坊も補陀落山寺の住職であり、これまでにも数度の先輩住職の渡海に立ち会ってきたが、そのどれもが渡海を決行すべく十分に悟りに到達した言動とは思い難く、自分もまた渡海など思いもよらぬことであったが、年齢が進むにつれ、周りの自分に対する接し方が変わって行き、最終的には自分も渡海を決断してしまう。 あとは“死”への秒読みのごとく時が流れ、心の中では自分の未熟さや悟り未到達と感じながらも当日を迎え、見物客や弟子たちに見送られながら浄土を目指す。 目指しながらも舟が揺れ、潮が侵入してくると、思わず囲いを打ち破り、生きるために必死になる。 だが、渡海のサポート役たちは、再度、今度は人知れず金光坊の渡海は完結する。 それ以降は、生身の住職による渡海は執り行われなくなったというストーリーである。 これは…、未熟というか、当然未経験であり、厳粛な余韻を残したが、コメントすらできない後味の悪さ…。

最後の作品は、「おーいでてこーい」SF作家星新一の作品である。 SF作品は特に興味もなかったので、これまで読んだことはなかったが、7ページの作品で、こんな時にしか読む機会がないので読んでみた。 ある村で、嵐によって壊れた社の下に大きな穴が開いた。 穴の中は真っ暗でよくわからない。 役所や有識者は原因や穴の正体を突き止めようとしたが、よく分からない。 誰かがいたずらで、穴に向かって「おーいでてこーい」と叫びながら、小石を投げ込むが無反応。 読み手としては、その後の展開はやはり穴の中から何かが出て来ることを期待しながら、読み進める。 しかし、この穴に何かを落としてもただ吸い込まれていくだけで、何の問題も発生しないと分かると、人間の性というか、いろんなものが投げ込まれていく。 生活ごみ、動物の死骸、社内の機密情報、核廃棄物…。 ある日、工事現場で仕事をしていた作業員は、頭上の方から奇妙な音を耳にする、「おーいでてこーい」。 それから小石が空から落ちてきて、自分の脇を落ちていく。 SF的さわやかさはあるのだが、この後、生活ごみ、動物の死骸、社内の機密情報、核廃棄物…などが空から降ってくるとどうなるのだろうか? なんとなく「アルアル」なストーリーであるが、残念にも、その後の展開は触れないままである。 やはり、これも痛快なエンディングではなく、何か後味が悪い!

ちょうど点滴も終わりの時間となり、体温と血圧測定をして終了する。 体内の血液は体重の約10%と理解していて、血液の比重がおおよそ水と同じとすると、私の場合、6リットル弱である。 この日の点滴量は約1.5リットル、口からの水分補給は約1リットルであり、血液の濃度は70パーセント程度になっているはずだが、人間の体はよくできたものである。 上限を超え過ぎないようにコントロールされているのである。 今日一日、治療の今後と身体の不思議と、三つの作品の後味の悪さと、なんとなくではあるが、自分が生きている側の世界の許容範囲というか、限界を見ているような一日だった。 それは、治療の~、好みの~、生死の~、暮らしの~、限界であり、言い換えると“あきらめ”と呼ぶのかもしれない。 限界があるということは、以前記事にしたゼロサムゲーム、自分が作り出す「総和はほぼ一定」ということ、例えば、治療と楽しみの二律背反のように…。 だとすると、私が目指す“ポジティブな老後”とは悪あがきかもしれない! ただ、私が思いたいのは「総和がほぼ一定」の“ほぼ”である。 限りなくゼロに近いがちょっとだけプラス寄り…!


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