例の短編小説集の中の梅崎春生作「突堤にて」という作品を題材にする。 この作品は、例によって段落換えや会話「」の空白込みで、3720字程度原稿用紙約九枚の作品である。 残念ながらこれまで知らなかった作家である。 この作家の感性というか、表現力というかは独特である。 ブログのタイトルを見て読みたくなくなった方も多かったろうと思うが、この作品の中の表現で私がドキッとしたフレーズであり、このフレーズが脳裏から離れなくなっている。 というのも、誰でもこの種の感覚は、日常的に味わっていることであり、私も毎週体験している。 作品の掲載は昭和29年のようである。
「突堤にて」という題からしても、おそらく海に突き出した防波堤のようなものを想像し、楽しみに読み始めたがその通り! 戦時中の防波堤の工事が途中で中断したようで、防波堤のハナ先に位置する「突堤」は完成しているが、そこまでの通路は、干潮時には現れ、満潮時には海面下となるようである。 海のそばで生活したことがある人なら、誰でも想像でき多少ワクワクするシチュエーションである。 そこに集まる釣り人たちを描いている。 当然、餌や獲物を落とす、衣服や携帯物が濡れるなどの被害を防ぐためには、干潮時に渡り、満潮時に釣りを満喫し、干潮時に戻るというパターンを選ぶことになる。 私は島育ちのくせに魚釣りは余り好きではなく、当然、知識やうんちくは全くなし。 ただ、子供の頃は全く経験がないわけではなく、たまに友達と磯辺に向かったものである。 そこには、例によって私なりの屁理屈があり、生き物にとって一番大事な食の部分で、相手を欺いて釣り上げる行為はよろしくない!というもの。 実は、釣り上げた後の生臭い匂いがその後それを完全に処分するまで続くことではないだろうか、と最近分析する。 その私でもたまに不思議に思っていたのは、干潮時と満潮時どちらが魚が釣れるかということ。 中高生の頃だったか、海にせり出している瀬の一番高いところから竿を垂らしながら、この姿はちょっと絵になるかも…と勝手に浸っていると、近くを通ったおじさんが、「そこで釣っても釣れんばい!」と言う。 おじさんが言うには、今は満潮で私が釣っていた場所は日常は干上がっていて、藻も生き物もいないところなので、魚が来ないというのである。 屁理屈少年は浸っていた気分が興ざめになった記憶がある。 この「突堤」は満潮でも釣れるのだろうか。 早速ネット検索してみると興味深い。 一言で言うと、魚は満潮時の方が食欲が増すようである。 ただ、満潮時は海は広がり陸は狭まる。 つまり、魚は行動範囲が広がり、釣り人は行動範囲が狭まる。 よって、どんな魚をねらうか、どんな釣り場かによって変わってくるようである。 雑魚は大魚の行動範囲が広くなると、食べ物のある(藻や生き物がいる)陸地寄りに避難するが、干潮時には雑魚と大魚の距離が近づく海底の地形では、大魚は雑魚を狙って食欲旺盛になるということもあるらしい。 つまり、海に突き出した「突堤」は、食べ物のいる大魚からの避難場所と見た! 雑魚狙いの釣り場か? 屁理屈で小説の筋を台無しにしそうである。
作者は魚釣りをするために「突堤」に通い始める。 そこには常連と思われる人々が、あだ名で呼び合いながら、親しそうに魚釣りを楽しんでいて、作者のことには、目が合ったら会釈をする程度で、存在がないほどに無視された状態が一か月ほど続いた。 作者の表現では、「世間の貌(かお)」を向こう岸に置き忘れてきた人々である。 週末になると、彼らにとって“見知らぬ人”である素人衆が増え、「世間の貌」のままで振る舞うため鬱陶しく、彼ら常連は半減する。 そんなある日、作者の釣針に次々と大き目のメバルがかかり、それをきっかけに、常連デビューすることができた。 休日のスケートリンクで周りよりも多少上手なスイスイ滑る人のように、彼らの中にも周りよりも釣りが上手な人は一目置かれ、横柄な言葉遣いが許されているらしい。 作者は、排他的な雰囲気を醸し出す優越感のようなものと表現している。 物語としては、そんな「世間の貌」を置き忘れてきた排他的な集団に、新たな“見知らぬ人”が到来し、しばらくは例の状態が続いた後のある日、その“見知らぬ人”は持ってきた餌が全部なくなったところに、突堤のコンクリートに生きたゴカイを発見し、餌として使おうとした。 それは一人の常連客の餌箱から逃げ出したものとして、所有権争いに発展し、つかみ合いの喧嘩になった。 その後なんとなく市民権を得た彼であったが、ある日、場違いな服装の刑事か会社の人か不明な三人組が突堤に現れ、彼を連行していった。 彼の釣り具や荷物を残したまま。 結局、彼の道具は数日間その場で見かけたが、そのうちに流され消えてしまった。 彼が何者でなぜ連行されたのかもわからないまま。 作者はこのシチュエーションで、「世間の貌」を忘れてきた者たちが、正当に反発しないで慣れ合いで誤魔化し合い、大切なものを犠牲にして、周囲との摩擦を避け、自分の現状を守ろうとする姿勢であるとし、「道端などで不潔なものを見たときの感じ」と表現している。
「不潔」という表現には少しだけ引っかかる部分があるが、時代的に最近この表現を使わなくなったようにも思うし、作者の意図かもしれない。 「不潔」は衛生的ではないものや状態を表すことが多いが、私なりに「見苦しい」とでも表現することにしよう。 私は以前、初めて訪ねた碁会所のよそよそしさ、敷居の高さの体験談を掲載したが、自分の素性や主義主張は明かさぬまま、集団の雰囲気に馴染み、馴染んだ立場を守ることを前面に、お付き合いの上で発生する摩擦に対する直接的な解決を避けている。 その馴染んだ立場というのは、囲碁のプロから見ると五十歩百歩、いや五十歩六十歩程度の差であるにもかかわらず、「素人衆」とは違うと勝手に決めつけ、その十歩を大事にする排他的優越感なのではなかろうか。 自分に当てはまることが多いからか、一人で盛り上がり文字打ちが進んでしまった。 確かに誰の心の中にもありがちな「見苦しいもの」のひとつかもしれない。





どこの場にも、目に見えないルールと、暗黙の序列があるようです。喫茶店であれば、カウンターに座ることを許される常連になるまで、結構な日数がかかったりしますね。通い詰めて、出席率、滞在時間が長くなると、顔みしりが増え、何かのきっかけに、位置づけが決まっていく・・・今まさにそんな日常を楽しんでいます(#^^#)
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