百万円煎餅

 おそらくNHKだったと思うのだが、ちょうど「まんが日本昔話」のような静止画の組み合わせとナレーションの、有名小説家の短編小説が放送されていて、思わず見入ってしまった。 短編とは言えストーリーや作者の主張がある。 プロの繊細さを感じた。 そもそも、短編の定義は400字詰原稿用紙で10枚から100枚程度らしく、つまり4000字から40000字である。このブログが段落を変える空白の行も含めて、3600字程度と考えると、このブログ1回分程度から10回分くらいの文字数で、背景、エピソード、主張、感動を与えるわけである。 すごい! 最近の自分の本離れは多少気にしていたこともあり、ブログ継続のためにも新たな刺激と文章力の改良、そして何よりエネルギー補給につながれば…、という気持ちもあり、短編小節を定期的に読んでみようと考えた。 もちろん、補給したエネルギーはどこかで発散する原動力になると考えた。 これまでは、所有する本の数を増やすために読む本は購入することにしていたが、この歳では所有物は増やさず、図書館を利用することにする。 ついでに、予約システム、自動貸出機を利用しようと思ったが、予約システムは明日の貸し出しには活用できず今回は断念し、自動貸出機のみ活用した。 恐る恐る貸出機のそばの手順を確認し、渋滞にならぬように後方に気を遣いながら、まず対象物を機械の脇の台に置いた。 いつも高齢者のチャレンジには運の悪いことは付き物である。 手順通りのガラス板に本を乗せなくても読み取り完了となった。 予期せぬ反応は高齢者を戸惑わせた。 日本文学100年の名作第5巻である。 タイトルは「百万円煎餅」、16作を代表したタイトル、三島由紀夫の作品である。 

まずは、その三島由紀夫作「百万円煎餅」を題材にすることにした。 27ページ、段落替えや会話の「」後などの空白も入れて約14000字、1960年の作品である。 私が五歳の時である。 登場人物はわずか三人、おそらく20代の夫婦の健造と清子、それに健造のおばである。 舞台は浅草、開業したばかりの娯楽のデパート「新世界」で、おばとの待ち合わせ時間まで暇つぶしをするシーン。 玩具や食品売り場から、様々な娯楽施設に屋上の遊園地や飲食店街、最後に待ち合わせ場所の3Fの洋風喫茶、さすがは娯楽のデパートという情景が続く。 主題の「百万円煎餅」は、玩具売り場で健造が不用意に飛ばしてしまった玩具が、百万円煎餅の上に落ちたことで購入した三枚入りのお札(百万円)を模した煎餅。 二枚は夫婦が食べるが一枚は残したままストーリーは進む。 おばさんと出会い、今日の仕事は中野の上流階級の家。 おばさんは仲介業で、夫婦を中野の客に紹介したようである。 客の素性を知られない様、仕事現場には回り道を繰り返すところからも、まっとうな仕事ではないと推測するが、仕事の内容には触れていない。 次のシーンは、浅草で家路につく夫婦の様子。 とりあえず期待以上の収入に満足しながら、夫婦ともにちょっと沈んだ気分で、上流階級の婦人たちの気取った振舞には後味の悪さを感じ、健造はその期待以上の札を破り捨てたらスカッとするだろうとつぶやく。 妻のハンドバックからその時差し出されたのが、あの一枚残っていた時間も経って湿っていた百万円煎餅である。 健造は手に取り、引き裂こうとするが柔らかくくねって引き裂くことができなかった。

読み終わって考えれば考えるほど、私のブログで書いてみたい題材ではなく、日本昔話的なアニメの題材にもなりえない。 私にはこの若夫婦の仕事自体も正確には確定できておらず、最初は買春・売春?どちらかわからないがそんな行為と考えたが、夫婦で演じることを考えると、戦後の浅草はのちの有名芸能人の下積み時代のストリップ劇場があり、出張ストリップショーのようなものを上流階級の婦人たちの前で実演する行為のようなものかもしれない。  時代背景からすると、売春防止法の施行が1958年、私が三歳の頃である。 実家の割と近くに〇〇楼とか△△閣といった木造数階建ての大きな旅館のような建物が、まだ空き家状態で残っている頃、そんな建物の周りで遊びまわって育ったようである。 この短編はちょうどその頃の作品ということで、私はまだ物語の背景や情景が、想像できる年頃なのである。 ついでに書くと、「娯楽のデパート」とは言え、おそらくその後の屋上遊園地のはしりだったのだろう。 あのピンクレディは静岡駅前のデパートの屋上遊園地で、確かデビュー発表だったはず。 私が18歳の時、友達が自転車で駅前を目指したのを思い出す。 今では皆無であるが、まだまだデパート屋上は賑わっていたようである。 とすれば、小説の中に描かれている情景自体、我々の子らの世代には想像することが困難ということで、文章表現の美しさを楽しむ以外には、この名作の評価はこの先下り続けるのかもしれない。

作者はこの短編小説を書くことで何を伝えたかったのだろう。 作品中に共感を得るような意見や表現があるわけでもなく、性風俗従事者三人の会話や描写に終始している。 ただ、その文章や会話の流れは、一気に読み終わってしまいたくなる。 物語の大部分が、夫婦に関する描写であり、やがて授かる子供のために計画的に貯金していることや、「娯楽のデパート」での出費への夫婦の考え方の違い、お互いに思いやっている姿など、一般的な真面目な地道な夫婦の印象が強い中での地道ではない性風俗の客商売というギャップは興味深く映った。  また、体と心を犠牲にしたお金を手に、現実の地道な生活に戻ると、破り捨てることができない大事なものとなり、それは、お金の形をした煎餅ですらも、引き裂くことができなかったという皮肉なオチまで表現されている、と読んだのだが考えすぎか? 大昔からお金を媒体にした性風俗の文化は存在したようであるが、日本でのその変遷を語る上では、戦後生まれで我々の年代までが聞きかじったり、一端に触れたりしたことで、その変遷との結びつきを感じるのではなかろうか。 終戦後の1948年には新憲法発布、それに合わせて風営法なる法律ができ、GHQによる支配はサンフランシスコ講和条約1952年まで続き、その間でGHQによる規制とアメリカナイズされた風俗が始まり、1958年の前述の法律、その後風営法は次々と改正されてきた。 その新しい規制が始まるたびになんとなくガッカリ感を覚えながらも、体と心の犠牲と引き換えにお金を得たい人と、そこで楽しみたい人が存在する限りは、新しい手段と新しい規制ができ続けるのだろうか。 人間の「三大欲求」恐るべしである。 ただ、なんとなくではあるが、「食欲」「睡眠欲」と「性欲」で、DNAの中の位置づけがちょっと違うような…、と思いつつも短編小説は手軽で、面白い!


コメント

  1. 匿名9/20/2025

    ピンクレディーは、身近な高校生だったんだな〜(^o^)

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