「街の文化」体験

「人格なき社団」という言葉を耳にしたことがあるだろうか? 法律上の言葉であり、法人としては認められていない、または届出されていない団体である。 地域住民が集まり、地域の問題解決やイベント等の企画運営を行う団体、あるいは共通の趣味や興味を持つ人が集まって活動する団体などである。 夏祭りなどの企画、清掃活動、作品発表会、市民活動などが該当する。 広義な意味では、PTAや地域のスポーツ活動なども含まれるようである。 私が最近体験しブログの記事にもしている、自治会の活動や囲碁同好会などもまさに「人格なき社団」なのである。 耳障りな響きである。 こんな分類は必要ないと思うのだが…。 活動が軌道に乗ると会費を集める。 一定の会費が集まると銀行口座が必要になる。 たちまち、「人格なき社団」では銀行口座は開設できない。 最近、マネーロンダリングなど、責任の所在が明確でない銀行口座の開設の審査は厳しい。 必要な書類は銀行によって異なるが、団体規約(会則)、年間の活動内容、会議の議事録等で活動を証明した上で、代表者の身分証明及び印鑑証明が必要となる。 通帳には、代表者名と団体名が併記される形になる。 つまり、代表者が口座管理するということである。 というわけで、私が所属する囲碁同好会も、会則、年間活動など年間報告会を持たなければならないのである。

私は大学に入学するときに、父親から酒、囲碁、麻雀、ゴルフを覚えるように…との社会人先輩としてのアドバイスをもらった。 経済的に厳しいゴルフは当時は達成できなかったが、勉強以外でありどれも嫌いなものはなく、先輩のアドバイスに忠実に従った。 現に、就職してからはその四つのアドバイスどおり仕事上、役に立った。 しかし、私の世代では徐々に仕事とアフター5を分ける風潮に変化したこともあり、同じアドバイスは子供世代には継承することはなかった。 考えてみると、終戦後の娯楽と言えば、大相撲、野球、囲碁将棋など数えるほどしかなかったのだろう。 そこにラジオやテレビ放送が始まり、我々の親年代が働き盛り遊び盛りでどちらも熱中したため、それらの娯楽は社会の中で暮らしの一部のような存在だったかもしれない。 同好会内部で私を若手と呼ぶ会員の皆様方は、熱中している先輩や上司をめざしながら、団塊の世代と呼ばれて、戦後の娯楽のピークを過ごされたのだろうと推測する。 その後は、通信網の発達と娯楽の多様化の流れである。 後継者問題とか、会の存続とかはあいさつ代わりの日常会話である。 私は心の中では、以前クラブ活動のところで触れたアイデアで、年金生活者が社会貢献の一環として、自分たちが持っている得意分野の盛り立て役になれないものか、と考えてきたが、同好会では新参者なのでまずは自分の実力を知り、アップすることに専念するはずであった。 ところが、身体の問題を知り、体内のこの先長~い友達にも注力する羽目になっている。 年間報告会では、前述の会則や活動内容など以前よりも面倒なこと、会長名義の口座であること、などの説明があり、その後、会員の高齢化の問題になり、役員経験者の皆様方から、児童・生徒へのアプローチや大学生・社会人への経験談などが話題になった。 高齢者の貢献を活用した話ではなかったが、試みは既に実施された形跡があって今があることが理解でき、威勢よく発言しなくてよかったと、若気の至り(60代は若手と呼ばれる会)を反省した。 土浦文化協会主催の「趣味発見!体験会」なるイベントが8月17日に開催され、三味線、囲碁、演劇、詩吟、舞踊、民謡、音楽、ダンス、茶道などの体験会に当同好会も囲碁コーナーを受け持つらしい。 まずは参加することにし、サクラ(偽客と書くらしい)としての対局者兼モニターに囲碁対局を映す役目をもらった。

会場の公民館は、一階はロビーと二、三十人の客席と舞台がある小ホール、二階は小部屋に分かれての体験スペースのようである。 小ホールでは開催時間の10時から16時まで次々と発表会があり、ロビーはその発表会の次の演目の出演者やそれを見に来た家族や知り合いの待機場所化している。 スペース内はただの通路、あるいは出番待ちや出番後の人たちの暇つぶしの場所で、たぶんほぼ全員は囲碁を知らない人であった。 しかし、同好会員の方の中には、手製の対局風景のぬいぐるみ持参や、数十万円はするだろう囲碁のAIロボット持参の方がいて、囲碁とは別の興味で
それなりに賑わっていた。 たまに囲碁ができるという子供もいたが、やってみると碁盤のどこに石を置くのかも知らなかったり、単にAIロボットに興味があるだけだったりであった。 
大人は、社交辞令で囲碁は覚えたい…でも今日は時間がない人ばかりであったが、未経験だができるようになりたい二人組、経験者でAIロボットと是非対戦したいという人(この人だけが囲碁経験者)くらいが「体験会」という趣旨に合った人であった。 未経験の人に説明しながら、私は改めて囲碁を教える困難さを知った気がした。 簡単に言うと、囲碁というのは、(戦争用語で不適切感があるが)白黒の石を兵隊と見立て、兵隊が囲んだスペースが陣地になり、その陣地が多い方が勝ちとなるゲームである。 しかしながら、兵隊同士が接触し囲み合い、ある状態になると捕虜として召し上げることができる。 召し上げた捕虜はゲーム終了の勝敗決定時に、捕虜分だけ相手陣地を減らすことができる。 つまり、スペースを作ることと捕虜を増やすことはゲームの戦略上は同等の効力があるが、ゲームのやり方としては、陣地を取るためには敵のいないスペースに打つが、捕虜を作るためには敵のいるところに打つという、ある意味では相反する戦略になるのである。 通常のゲームではルールを知るとやり方が分かるのだが、囲碁はルールは少ないのだがやり方が分からない。 子供たちは捕虜を増やすことが楽しくすぐに打ち始めるが、大人たちは広い碁盤(19目x19目)、つまり361通りの選択肢の初手から、
「陣地作り」か「捕虜作り」か迷うのである。 我々経験者はというと、結局はこの陣地と捕虜のバランス感覚を競っているのである。 そして、「陣地作り」は全体的な感覚、「捕虜作り」は局部での読みの勝負であり、AIはもちろんのことだが、読みの勝負になるととんでもなく強いわけである。

そんなわけで、初めての「街の文化」への貢献は、囲碁未経験者との触れ合いの6時間、「捕虜作り」の面白さを教えて終了した。 個人的には「街の文化」への貢献は、体力的には手足がつりそうになりながらも楽しかった。 ただ、今回接することができた数人に対して、私が囲碁について説明や実践したことは、うまく伝わったのだろうか、という疑問が残る。 興味の有無は別として、少なくとも接する機会のあった貴重な人たちである。 ましてや、子供の場合はその後、半世紀以上も私と同じ趣味を持って、いや憧れのプロになって業界を盛り上げてくれるかもしれない。 プロの世界も、名選手が名コーチになるとも限らない。 教えるということはそれほど難しく重要なはずである。 教える方法が確立されているのであれば、是非身に付けたいと思った。 昔と違いコンピュータやAIがこれだけ日常的になってくると、いつでもどこでも囲碁の体験ができる時代である。 そんな時代には、興味のなかった未経験者に「はじめの一歩」の機会を与えることこそが人間の役目で、大変重要になるのではないだろうか。 今の日本の高齢者寄りの囲碁人口、一人が十人ずつ未経験者に「はじめの一歩」を提供できたら、悩みの後継者問題も右肩上がりに回復するのではないだろうか。 肝心なことは失敗しない「一歩」の提供、その重要性を感じて、日本棋院のホームページを見てみた。 あるにはある!…が、囲碁を覚えたい人のツールであり、教えたい人のツールではないような気がした。 プロモーションをかける対象は誰にするのが正解なのだろうか?








コメント

  1. 匿名9/08/2025

    趣味の世界、手ほどきを受けたころの恩義に感謝しつつ、恩送りとして、上達に悩む人に、簡単で繰り返せるトレーニングを手ほどきし、時々チエックと、アドバイスをする・・ギター好きとして、ほのぼのと、過ごしています。!(^^)!

    返信削除

コメントを投稿