“悩める高齢者”またも「政治の季節」

前回「政治の季節」という題名でのブログを書いたのは23年5月のことであった。 統一地方選と十数年ぶりに回ってくる自治会の班長の務めをきっかけにした記事であった。 目的も違う、多種多様な考え方の自治会の方々の集まりであり、物事をはっきりと結論付けないという違和感を書き留めていたと思う。 あれから2年。 班長は1年持ち回りなのだが、2年前の班長初顔合わせの会合で“くじ引き”の結果、2年任期の自治会の役員をやることになっていた。 当時、単身赴任から戻った後でもあり、自治会の活動も興味がなかったわけではなく、逆に活動が余りにも淡泊で、2回の決算報告資料の作成で、名残惜しくもあるが終了となった。 その間2度の自治会総会にも出席したが、くしくも発議があったのは同じようなテーマの話であった。 ゴミ集積所の管理問題。 1年目は決められたルール「曜日とゴミの種類」を守らない世帯への対応、2年目はゴミ集積所から遠い住民が時間を守らないことへの苦情。 理屈でルールの話をすると、廃棄物の責任は排出者が負い、どのようにゴミを出し、どのように処分されるかまで見届ける必要がある。 法令では、産業廃棄物(事業で発生する廃棄物)は事業者が排出者、それ以外の一般家庭からのゴミ(一般廃棄物)は一般家庭に代わって、市町村役所が排出者ということになっている。 つまりは、土浦市民に代わって土浦市役所が責任を負っているわけであり、守らせる行為は市役所が負わなければならないはずである。 自治会の議題ではないはずである。 また、市民は市の管轄のどこのゴミ集積所に捨てても市の管轄内であれば、許されることになる。 ただし、集積所付近の世帯は一定の当番制で管理を担当するケースが多く、自分もどこかのゴミ集積所の当番に参加していないと、「あなた方にとやかく言われる筋合いはない」とはならない。 江戸時代から脈々と続く「五人組制度」の名残である。 こんな制度は近い将来、様々な国の人々が共存する社会で成り立つのだろうか? ゴミ捨てのルールを守らないことを取り締まることもできない自治会にすがる仕組みで本当によいのだろうか? そんなことを考えながら自治会役員の任は終了したのである。

7月19日は参議院選挙の投票日であった。 結果はご承知の通り…。 ただ、期間中、外国人問題が異常に盛り上がり、フェイクニュースやステレオタイプ的な「一派層からげ」の議論が持ち上がっていた。 私も記事の中で、日本の緩い法律に対する一部の外国人の対応を懸念したことはある。 しかし、演説や政見放送の中には「そこまで言うかい?!」みたいな外国人に対する差別や思い込み発言が聞こえていた。 選挙を総括できるほどの立場でもないが、今回の選挙はこれまでに輪をかけて変な選挙であった。 ポピュリズムという言葉が、最近の国会でもよく聞かれるようになった。 私の中では“大衆的な思想”と普通に訳していたのだが、政治の世界ではもっと踏み込んだ考え方で“大衆迎合型の政治手法”ということのようである。 “悩める高齢者”はここでハタと考えてしまう。 そもそも投票率が50パーセント程度で、国民の半分は選挙にも行かない、政治には無関心なわけである。 その層の票をゲットしようと、与野党ともどもポピュリズムに走る。 新興勢力や与党にはなりえない勢力は、大盤振る舞い! 尚且つ、外国人問題のような対立軸が取りやすくわかりやすい戦略に走る。 与党や政権に手が届きそうな野党上位の政党は、経済、外交、国民生活などすべてが絡み合う政策であるため、わかりにくい主張になってしまう。 分かり易いということは良いことで、国民全体が興味を持ち、みんなが投票所に足を運ぶということ。 結果、仮に投票率が100パーセント近くになったとすると、新興勢力が突然“比較第一党”にならぬとも限らない。 それも民意である。 それでなくとも、ポピュリズムの嵐となった政権公約は、どんな政権ができても怖い気がする。 私は選挙権を得た頃、選挙に行かないことは棄権することで、どんな日本になろうと不満は言えないと考えた。 ただ、正直なところ、税金や社会保障の仕組み、経済の流れ、教育や国家感、外交や国防のことなど、まともに理解できておらず(この年になっても靖国問題は理解しがたいが…)、自分の一票で国が変わることを怖いと思った。 結果、一番当選確率の低くそうな候補者に投票していた時期があったことを思い出す。 今にして思うと、自分なりに社会がよくなると思う一票を投じることができるようになったのは、50代になってからのような気がする。 ただあの頃、分かり易い主張とポピュリズムな政策の候補者がいたら、やはり一票を投じるのだろう。

今もメディアでは、経済対策としての現金給付に対して、「子供がいるので助かります。」「年金では生活できず助かります。」など、お決まりなインタビューがニュースとして流れている。 たぶん、インタビュー自体はもっと多くの人の様々な画像があるのだろうが、象徴的な、誰もが聞き心地の悪くない画像がチョイスされるのだろう。 その安易さは、レベルはずーっと低いが、私のブログの写真の選び方とあまり変わりはないような気がする。 ただ、そんなニュースが流れると、多くの人がそう思っていると感じてしまう。 我が家の近くに1年ほど前から最近自転車に乗った外国人を多く見かけるようになったと思っていたら、私の散歩コースの空き家だった社員寮みたいな建物を、日本語学校として活用していて数名の外国人を見かけた。 最近見なくなったと思っていたら、以前よりも荒れ果てた形で空き家になっていた。 あの外国人たちはどこへ行ったのだろうかと心配してしまう。 その昔、私が“遊学”しているときも、英語学校に通っていたことを思い出す。 あの経験は私にとっては欠かせないものであり、このように身近なところでも、否定的な考え方で荒れ果てるか、肯定的に考え共存するかは、もっとフェアな議論をしてほしいところである。 
思い返してみると、おそらくGHQの検閲か、その後も現在まで続く米国への忖度かで、日本の教育のゆがみは修正できない。 そのことで、護憲、改憲、創憲などを語る気持ちはないが、少なくとも大正時代以降の日本の歴史や政治経済をまともに勉強した記憶はない。 選挙をまともに体験したのは、小学校の学級委員とか児童会長とかの選挙までで、中学高校では、選挙どころか“出る杭にならぬ”ように生きる術を学んだ気がする。 つまり、民主教育よりも五人組制度の方が強い!?  その後、楽しく自由に生きるために三当四落(団塊の世代後の我々は四当五落だったか?)の受験勉強をし、限られた自由のあと友達が就職するから就職をし、いつしか結婚し家族が増え、周りよりも楽な生活をと思いつつ仕事も面白く、気が付いたら、定年退職して今に至るのである。 こんな自分を振り返って、日本の今や将来を憂い、民主主義のあり様を考え、など高尚なものはどこにもなく、ただ、自分のことばかりを考え生きてきたようである。 それで事足りた!と今の自分が証明している。 今回の政治の季節、“悩める高齢者”はハタと考えてしまう。 匿名による不特定多数のリアルタイムな情報が流れる世界と、人間が長い時間をかけて作り上げてきた人権を重要とする民主主義は、共存できているのだろうか? “悩める高齢者”は「民が主」なのか「個が主」なのか混乱してきた! 「民が主」という権利を勝ち取るためには、義務を意識しなければならないのだろうと思う。 「個」に打ち勝つ崇高で、自制あるマナーを理解し、行動し続けていなければならない、気がしてきた。


コメント

  1. 匿名7/31/2025

    民主主義はエゴのぶつかり合いの中で、妥協点をルールにするものかなと思いますね。年齢なりに自分の利益を主張して、意見を出せばいいんではないでしょうか。枯れてきた年代が、それじゃ―あかんわ・・と反対するのも、力の調和の中で結論になっていくんでしょう。今はちょっと、みなさん、無関心がかっこいいみたいなことになってるのか、無気力なのかわかりませんが、今迄からしたら、極端な意見が出てきたことは、ブレイクスルーの気配かも。もれなく、混乱や、痛みはありますが、ケンカしたことのない子供は人の痛みをわからんという言葉もありますので、多少のぎくしゃくはあってもええんではないでしょうかね。

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