米の価格高騰のニュースがテレビではいつも流れている。 原因は生産者と小売りを繋ぐ流れの中での価格高騰ということだがよく解らない。 米の話になると必ず思い出す私の失敗談であり笑い話がある。 京都単身赴任時代に、片道約30分の道を雨の日以外は徒歩通勤していた。 その途中、住宅街の中に点在する田んぼがあり、春夏秋冬様変わりする田んぼの風景を見ながら通勤した。 水張りを終え田植えが終わると、田んぼの入り口付近に余った苗がそのまま固められているのをよく見かけた。 後で分かったのだが、あの苗は余って不要になったのではなくその後も有用らしく、田植え後に枯れたりして疎らになった箇所に移植していくらしい。 新たな発見であった。 この話題と関係があるかないかは微妙で書きづらいのだが、単身赴任中に稲を育てたことがある。 2リットルペットボトルの底の部分3分の1を切り取り、観葉植物用の土を入れ水を張り、アパートのベランダに設置し稲を植えてみた。 通勤時の風景の通りに、水を張ったり、土が乾き気味になったりを繰り返しながら、稲はすくすくと生長し、夏の終わり頃には緑から麦わら色に、そして“首を垂れる”。 ひとつまみ、数十粒の“稲の実”をゲットした。 故郷の島には稲作が行われていなかったこともあり、大人になっても大変な無知で、モミ殻外しと精米の工程を知らずに、百円ショップのすり鉢とスリコギを使ってモミを外し、黄色いコメつまり玄米のまま、通常の白米の上に乗せ炊いてみたが、硬くて食べられず、吞み込んだ気がする。 精米、袋詰め、物流、保管と「生産者と小売りを繋ぐ流れ」が存在すること、重要であることはそのとき理解したはずであるが、関係者の話はやはり分からない。 ただし、政府の減反政策や外国米への輸入制限や関税、それと何か日本のコメ政策は性善説の上に乗っかった仕組みで成り立っているような気がして、それが崩れているのが価格高騰に繋がっているのではなかろうかと考えてしまう。
性善説の上の体制やルールによる不適合と感じることは、最近多々ある。 若いころよく議論していたことを思い出すのだが、狭い島国ニッポンは、ほぼ単一民族であったため、言語もルックスも考え方もマチマチの状態を知らず、外国の方とお付き合いするときに、契約社会であり、阿吽の呼吸は通用しない。 「何言ってるんだよ、分かるだろう!」が分からない人もいるのである。 単一民族内にも「性善説、性悪説」の議論はあるのだが、ニッポンと外国を比較するとわかりやすい。 例えば、車がまばらにしか通らない、または渋滞中の、横断歩道の信号。 東京では多くの人は信号が青に変わるまで待つが米国の都市部では待つ人はまずいない。 歩行者の身を守るためにルールが存在するわけだが、歩行者が身の安全を自分で確認できれば、ルールよりも自分の判断が正しいと考えるらしい。 この場合は“自分の判断よりもルール”を重んじることが“性善”なのだろう。 最近の富士山登山はどうか。 私も静岡県民の数年間の間に一度弾丸登山を敢行したことが確かにあった。 しかし、「山開き」期間中の約2か月の間と決められていると思っていた。 それは、ルールはルールであるが法律ではない。 「山の神」信仰つまり神道の世界であり、ニッポン人以外には理解しがたい。 よって、守らない人が出てきても罰することはできない。 罰せられなければルールは守る必要はない、自分の判断が優先すると思う人がいてもおかしくない。 その上、もしもの時に結成される救助隊のほとんどは警察や消防、つまり地方公務員であり、その地方の住民の税金で無料で住民を守る役割である。 国税の一部が地方交付金となるとすると、せめてニッポン人であれば無料もありかもしれないが…。 以前記事にした「バックカントリースキー」も同様のケースである。
最近、目が点になるニュースがあった。 外国人による車の運転で交通違反を犯すケース。 長く国外に滞在するニッポン人への対応としてのルール「外免切り替え」があり、まったく簡単にしかも短期滞在者でも、定まった住所がなくても、運転免許証の書き換えができるようである。 ニッポン人に対する制度としては便利な制度であるが、外国人が短期滞在で自国の免許を使ってニッポン人と同じ免許証をゲットでき、しかもニッポン人と同じように身分証明書代わりに使えるとしたら…。 それだけならまだしも、その制度をうまく利用して国外からの旅行ツアーで金儲けしているとしたら…。 外国とニッポンの文化の違いばかりではない。 ニッポン人同士の中でも何かおかしなことになっている。 選挙ポスターの掲示板は、当選したい人のアピールの場の“はず”である。 選挙の立候補者は、期間中自分が当選すべく選挙運動をする“はず”である。 役所のトップや公務員の方々は、住民に法律を正しく理解させ、運用させる人たちであり、不足しているところは新たな法律を作り、国や地域の秩序を守る人たちである“はず”である。 しかし、最近では“はず”が通用しないようである。 法律に対する解釈で「その考え方もある」ではわからなさすぎる。 誰が正しいことを教え、実行を推進する人なのかわからなくなってくる。 狭い島国、言語もルックスも考え方も近い、ほぼ単一民族のニッポンが国としての秩序が成り立ってきたルールは、人々をがんじがらめにするのではなく、社会に対する貢献や善悪の判断という意識的な余裕を残したものだったような気がする。 もちろん、昔からそんな社会の中ではみ出した“悪いことをする”人はいたはずだが、大多数ははみ出さなかったのではないか。
物理的な輸送網と情報伝達網の進化は、世界をグローバル化し、そんな島国ニッポンにも入り込んできたということだろう。 危惧してしまうのは、国の根幹である民主主義の“民主”が匿名の真偽不明の情報に振り回されたり、即効性のあるバラマキ案に振り回され、リーダー不明状態のように思えてしまうことである。 時代の曲がり角なのだろう。 ただ、必ずや新しい風が吹き、新しい潮流での改革が進むであろうと信じる。 年齢別人口割合で増加し続ける我々シニア世代は、自分の生活や経験や感情に任せた行動ではなく、新しい風や潮目を感じながら、“清き”一票を投じなければならないと改めて思う。 ニッポンという国の良さを残しながら…。



日本の不幸は、無能で阿呆な60歳以上の政治家が跋扈していること。ここに、帰化人が混じって、どこかの国の統制下でじわじわ、環境破壊を進めている・・と思えるように思います。一斉に、60歳以上は国会議員にしないことにして、総入れ替え、そのうえで、議員数を五分の一以下にして、アナライザー組織での必要製作候補その策定の上、国民が賛否を
返信削除直接ネット投票したらどうかなー