知りたいことだらけ!

極まれに趣味を題材にしている。 若い頃から音楽、囲碁、ゴルフは好きで…、ただし、どれも仕事、家庭など時間や費用が自由に使えない時期に中断していたことを言い訳に、満足な結果にはなっておらず、殻の外では腕前はともかくとして理屈がわかりたいと思い取り組んできた。 ゴルフは、身体の正面でボールを見るとか、力任せに振らないとか、“Lスウィング”とか記事にしてきたが、スコアにはつながらない。 年齢の影響や病院通いでの体力の低下は否めないが、記事にした内容の成果か練習場ではたまに満足な打球になる。 自分にもできるんだぁ!と思い始めると欲が出て、再現性を上げたいということになる。 これまで言ってきたことはどれも間違っていないと思うのだが、そのことに捕らわれすぎるとリズムが悪くなるし、打ち気に逸ると心身のバランスが崩れる。 我流を続けた悪い癖はちょくちょく顔を出し悩ませる。 再現性のためには、スウィングの始まりから終わりまで、一定のバランスとリズムで振ることである。 年齢・体力の問題もあり、上手い人の真似をしても筋肉が持たない。 今は8割スウィング!! ゆったりした気持ちで、満足な打球の回数が増えるように日々練習している。

囲碁は、“若手”として近所の公民館での囲碁愛好会への参加を続けながら、「見合い」の考え方(緊急度の高い場所を作りつつ大きな場所に多く先着すること)を実践してきた。 最近の新しい挑戦は追加で二点。 まずは、「石の形」である。 囲碁は交互に打つゲームであるので、価値のある手を多く打った分だけ差が大きくなる。 その価値のある一手というのは、効率の良い一手、無駄にならない一手であり、そのための形や石の繋がり方に気を配ることが大事なのである。 二点目は読み。 初心者の頃は、自分が考えたように相手が打ってくれないため読む意味がなかったが、少しやっていくと読みの重要性がわかるようになる。 ただ、対局中は試し打ちができず頭で考えるだけのため途中で見失ってしまう。 それで自信のない安全な手、言い換えると、いい加減な手を打ってしまう。 特に自分よりも上手な人との対局で、自信ありそうに石音高くバシッ!と打たれると、ビビってしまってろくに読まずに安全策を取る。 囲碁はどれだけいい加減にならずに我慢強く読み、確信を持って打てるかではないかと思っている。 間違えてもたかがゲームである。 自分の体力や年齢を言い訳にして諦めず、できる限り確信に近づけた一手にしたいのである。 囲碁の日は頭への血流が多い気がする。

ゴルフも囲碁も苦笑してしまうのは、結局は練習を重ねて追及しても、昔読んだり聞いたりした雑誌やプロの先生の言っていることを、やっと理解できるようになるだけで、なんとなく逆戻り感がある。 もう一つの趣味の音楽の現状は、コンピュータ音楽と人の声音で歌詞を歌ってくれるソフトだよりではあるが、自分で試せることはやってみることができ、ある意味では飽和に近づいている気がする。 作曲は似ているフレーズが多くなるし、理屈がわかっても広がりがない。 つまり、能力的に頭打ちなのである。 ただ、作詞はまだまだ成長の余地がありそうなのだが…。 歌詞の勉強のために始めた俳句は、ヘタなりにちょっとハマっており、自作の俳句一覧が増えることで満足している。 そんな中、最近気になっていることがある。 俳句は五七五の十七音でそれに季語も入れる必要があり、基本は余計な表現はせず見たものを描写し、作者の感情的なものは読者が勝手に感じ取ることになる。 たまにそれだけでは欲求不満になる。 それで最近では、まず俳句を作り、それを上の句の五七五として、説明や感情を下の句の七七として加えたりする。 まさに「ひとり連歌」であるが、自分で上の句も下の句も作るのだから、それこそが「短歌」ということになる。 短歌には俳句のようなしきたりはなく、五七五七七の三十一音で、景色や思いを表現でき、季語不要で欲求不満は少しは解消する。 ちょっと調べていくと、私の行動は歴史と逆行している。 短歌は「和歌」という呼び方で奈良時代から存在し、中国の書物には「倭歌」という記載があるらしい。 漢詩の五言句、七言句(学んだ漢詩の多くは漢字五文字か、七文字かで表現されていた)が、五七五七七の体型の始まりと言う説もあるが定かではない。 ただ、私としてはそれで納得が行く。 連歌は平安時代からあり、上の句、下の句を交互に詠み合う貴族の遊びとして理解しているが、その上の句だけを詠む俳句が江戸時代に流行する。 短歌は明治時代になり体系化されていくが、私にとっては和歌と短歌は古文か現代文か以外では識別ができず、歴史的には和歌(短歌)→連歌→俳句と理解している。 よって私のたどった変遷は逆行? 最近の作品を紹介すると…、

俳句: 白梅や北へと伸びる線路跡
短歌: 白梅や北へと伸びる線路跡自転車道となり蘇る
かつて土浦から筑波山の麓を抜け下館まで続いた関東鉄道は廃線になり、国道と平行して残る線路跡には梅や桜が今も残っている。 俳句では懐かしく思いながらもその情景を詠んだが、短歌では見ている自分の心情として、リンリンロードという自転車道として蘇り、霞ヶ浦、筑波山観光の拠点として利用されており、嬉しく思うのである。

今回の調べ物の中で面白く思ったことがある。 日本で独自の進化を遂げている五七五七七の短歌の調べであるが、これが二拍子、四拍子のリズムになっているらしい。 今でも同じ教え方かは不明だが小学校低学年のカスタネットのように、八分音符を“タ”、四分音符を“タン”、四分休符を“トン”として刻むと(伸ばすところは“-”)、五七五七七は、タタタタタントン、タタタタタタタン、タタタタタントン、タタタタタタタン、タタタタタタター、ーーーーーーントン、となっているようである。 驚きである。 つまり、短歌は四拍子六小節の構成なのである。 かつての和歌も琵琶や琴や笙(しょう)に乗せての歌、宮中の重要な娯楽や饗しの要素だったようである。 先進国からの輸入品を独自の文化にしているのである。 二拍子(四拍子もその延長)は、左右交互に動かす農耕民族のリズムと位置づけることもできるようである。 趣味の音楽への思いから始めた俳句であったが、そのルーツには、農耕民族日本人の中に培われたリズム、それは、教育や経験の中で無意識に我々の中に培われていると言えそうである。 

学校から会社と結局60年余り一週間の大半を「殻の中」で過ごして来て、「殻の外」で初めて、見過ごし知らなかったことを、知りたいと思うようになり、そのたびにインターネットや図書館に通う、または触れ合う機会を増やすようになる。 始めからそうなることを考慮したわけでもないが、その調べた結果をブログ「退職後の(殻の外の)喜憂な日々」として公表するようになっている。 自分の身近な趣味からまだ見たこともない地球の果てまで、知らないことだらけである。 残念ながらそれに気づき行動し始めるのが遅すぎた感はあるが、早かれ遅かれ一人の人間が知ることができることは、極僅かであり、誤差の範囲である。 そのことを題材にしたテーマソングをいつか作りたいものだ。









コメント

  1. 匿名3/27/2025

    知識欲がすごいね!驚かされます。わが身は、ほぼほぼ、「まっ、ええかぁ~」の繰り返しの毎日。これって最近だけでなく、若い時からの慣習だけど、興味出たこと以外は、すべからくこの調子で過ごしています。(笑)

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