新年特集号…昭和100年

 年始早々20日間も入院生活を送ることになり、二回連続で公開できなくなってしまったブログを「新年特集号」として二回分まとめて公開することにした。 例によって、入院中時間があることを前提にして、本や資料や文章作成など行おうと試みたが、やはり体調不良では何も手につかず、結局はテレビでのネタ探しと、ぼんやり外を見ながら俳句を考える程度であった。 「冬空や日々の変化をベッドから」(前回は四方壁とカーテンに仕切られた病室であったが、今回は外が見える窓側になりこんなにも違うものかと感じた。病室の窓からの外の景色は毎日違って見える。 雲の形、青空の状態、木々の色、駐車場の車の位置まで)、「リハビリに短き廊下春近し」(痛いとき、具合が悪いときは、トイレに行くだけでも大変なのだが、回復に向かうと自らリハビリを考え歩き始める。 徐々に病棟の廊下も短く感じはじめ、希望が出てくる)。 テレビで面白いネタをやっていた。 令和7年は昭和100年らしい。 昭和のことを思い返すには良い機会である。

私の昭和感と言っても、昭和は64年まであり、昭和が終わってからまだ36年しか経っておらず、子どもたちの年と重なる。 また、つくば市中心部のアパートから土浦市に引っ越してきた頃ともほぼ一致する。 先日亡くなった母が昭和3年生まれ(父も同学年)だったことを思うと、親子三代が昭和生まれで、親夫婦が超初期、私は昭和30年のど真ん中、子どもたちは昭和と平成の境目ということになる。 私が感じるこの三代の最大の違いは、コミュニケーションの手法だろう。 親の時代は手紙(後半に固定電話あり)、私の時代は固定電話/パソコンメール(後半に携帯/スマホ)、子どもたちはスマホ/SMSである。 つまりは、国内双方向伝達の初期→中期→後期は1週間→1日→リアルタイム、海外ともなると、1ヶ月→3日→リアルタイムということになる。 考えてみると、技術や思想の変化の社会への浸透過程において、最も変化する時代があるはずであるが、間違いなくコミュニケーションはこの100年が最も変化したことになる。 その意味では、乗り物、家電も同様である。 良くも悪くもその被害を最も受けたのが、昭和初期生まれの人たちだろう。 我々中期世代は、勤め先や業種や家庭環境によって、初期世代派と後期世代派に分かれるような気がする。

浸透過程という意味では、やはり太平洋戦争とその敗戦は大きい。 米国が占領した日本をどのように再生したかったのか、日本は占領されながらどのような再出発を図りたかったのか、立場によって違う気がするが、米国としては朝鮮戦争のお陰でこと半ば、中途半端な状態で日本を半分手放した状態になってしまった。 共産主義の拡大を阻む民主主義の砦であり、洗脳した後の自分たちの言いなりになる軍隊の保持であったはずであるが、戦争放棄の憲法と自衛隊の関係、民主主義の浸透には教育が必要で時間がかかるはずが、後はよろしく状態で終わってしまっている。 かろうじて、憲法と自衛隊の問題は、その後の安保条約/地位協定でなんとか目的は果たしている(日本からすると不幸にも果たされている。)。 その両方ともに令和の今まで引きずった状態になっている。 ただ、戦争が終わった状態で、民主主義のための、男女平等、選挙制度、基本的人権、義務教育、税金、社会保障など、終戦から昭和30年代で整備されていった。 ただ、民主主義の整備不足のためか、人材不足のためか、国としては、中途半端な米国主導の国の土台の上に、見た目上問題なさそうなルールを作り、庶民は、その激変するルールを鵜呑みにしながら、「お上」の政策に従っていく。 その上、貧しい生活の中で、国力回復のために「生めや増やせや」である。 「お上」の政策に従うという意味では、その考え方の根本は江戸時代から変わらなかったのではないか。 その頃民主主義はなどの発想はない。 ただ、やはり、昭和初期生まれの人は、もっとも影響を受けている。 我々中期世代は、学校で覚えた民主主義は多数決と学級委員選挙。 昭和初期の人々の影響を受けながら、大半の庶民は「お上」のフォロワーとして従いながら、会社人間として、会社の発展と自分の昇給昇進に向けて走り続けるわけである。

一度記事にしたことがあると思うが、狩猟民族と農耕民族により民族の風土が違うような気がするのだが、その農耕民族の中でも、稲作民族、これが日本の大半を占めていて、その稲作民族は特殊だと思われる。 先日、稲作農家を受け継いだ友人に話を聞いたが、水の管理が最重要で、用水路に水を流すタイミングや水があふれた時の処置など、水管理の担当者は区長以上の重要な役割らしい。 つまり、農家一人ひとりは身勝手な行動はできず、チームワークよく、管理者の号令に合わせて、水を引き次に回すことが当たり前のようにできる仕組みがあったわけである。 数百年前から…。 稲作民族のこの対応と「お上」のフォロワー的姿勢は、今でも会社が作りたい仕組みそのものである。 仕事柄、海外の人々とビジネス、プロジェクトや教育される場で協力し合ったことはあるが、日本人は、特質して大人しく(英語の問題だけではないと思う)、自分の役割を全うし、約束を守る。 まさに真摯なのである。 需要が豊富で軌道にさえ乗れば、役割は専門職となりより広くより深くなっていくだろう。 土台が不安定だったにもかかわらず、昭和中期とはそんな時代だったのだろう。 大卒の初任給で10万円前後だったと思うが、そのままの状態で年を取るとは思ってもいないし、現に残業で給料が倍になることもしばしばあった。 右肩上がりの時は、土台の不安定さや未熟さには気づかずに進んだ。 そのうちにパリのお土産店で爆買いする日本人、ニューヨークの有名なビルを買う日本人、私も見かけたがサンフランシスコの繁華街を数十人日本語の大きな声の団体観光客たち。 最近のお隣の国のようであった。 30代前半の私は余り恩恵を受けなかったが、確か、茨城県と福島県の県境辺りのゴルフ場の「縁故」と銘打った会員券を買ってしまった記憶はある。 私が知っているバブルである。 一度停まった舟を進めるのは大変である。 稲作民族の「お上」の指示待ちとは違うリーダーシップが必要な時代に入り、土台の不安定さや未熟さが重要と感じる世の中になる。

不完全な安全保障、右肩上がり頼みの社会保障、〇〇保障をなえがしろにしながら、民主主義教育も不十分なままに、国民総中流を目指した昭和時代は、それなりに豊かにはなったのだろうが、積み残しはそのままの状態に見える。 昭和初期の戦士たちは、そんな不安定な中、ドラスティックに変わる制度の中で、団塊の世代を作りながら、たくましく生きた世代である。 昭和中期の我々世代はというと、右肩上がりはちょっとだけ経験することができたが、その後不安定な土台を知り、舟を再発進させるための手探りを続けた世代かもしれない。 ただ、若い時に知った成功例を思い続けてきたようである。 昭和後期の子供たち世代は、評価するほど知らないというのが正直なところであるが、直面しているいろいろな課題やツールに対して、教育や社会環境など与えられているものが足りていないような気がする。 若手の実業家が最近よくテレビのコメンテーターを務めているが、足りていない処を補充しているように思う。 入院中に様々なことを考えてきたが、やっと退院でき遅ればせながら初詣に出かけた。 入院中に喪中謹慎の五十日も明け、これまでと違った一年の始まりになりますように、昭和後期以降の世代にマッチした環境の整備が整いますように、とお祈りするばかりである。



コメント

  1. 匿名1/28/2025

    国会の代表質問を垣間見る機会がありました。作文を朗読するだけの答弁、やろうと思っている、やっていきます・・・そんなことじゃなく、いつ何を、そのようにやるのか、やらないのかを、質問してるんだよな(# ゚Д゚) 株主総会を無難に切り抜けるような答弁書を、活舌悪く読み上げてるやつ見て、腹が立ったわ!

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