三つの主人公を越えて

病院滞在中にはいろんなことを耳にし、体験した。 同じような体験をした方には当たり前、体験をしたことがなければ「へぇ~!」である。 病院の話題を数回に分けて記事にしており、退屈な方もいらっしゃるだろうと想像しているが、これも「退職後の喜憂」であり、私の発見である以上、重要な題材である。 滞在時の先輩滞在者と看護師の会話で、通常、開腹手術は一度しかできないところ、自分は三度目だったと自慢げに話している声。 「へぇ~!」である。 一度目の私は大した病状とは思っておらず、もっと重要なときにこの一度しか使えないカードを切って欲しかったと思った。 気持ちを切り替え調べてみる。 癒着は「政財界の癒着」など普段は別々のものが利害を共有し結びつくこと、と思っていたが、本来の使い方は、皮膚や膜などが炎症などのためにくっついてしまうこと、の様である。 手術は皮膚や膜などを切ったり貼ったりする行為で、癒着はつきもの。 約9割の手術で発生する様である。 術後一週間で癒着の成長は止まるらしい。 そのために、術後なるべく早く体を動かして癒着の発生を防ぐ。 複数回の手術は、癒着部分の処理を行いながらとなり、手術が困難かつ長時間になる。 どちらにしても印象の悪い言葉である。 もう一つの「へぇ~!」は、血液検査での腫瘍マーカーは月に一度しかできないという事実。 当初、コロナワクチンの抗体のように必要以上に体内に入れると逆効果になると理解したが、血液を抜き取った後の検査であり、体への影響で片付けるのは筋違いである。 調べてみると、厚労省からの通達によるもののようで、過剰治療を防ぐためのガイドラインである。 解らなくもないが、治療のあり方や制限など病院の言いなりで信じるしかなく、なんとも心細い。

今となっては笑い話ではあるが、入院日が近くなったある日のこと、衣類の断捨離とエンディングノートの修正を行った。 手術時に麻酔をかけられるのも初めてであり、自分が自分の意のままにならない状態である。 まさに病院に任せるしかなく、極僅かな確率で運悪くエラーに直面する人はいる。 それが私になるかもと思うと、ちょっと整理をしておこうと思ったのである。 衣類の断捨離はちょっとスッキリしたが、まだスーツやコートなど残っている。 エンディングノートは、気分的に直面しているとより現実的になり、例えば、友人一覧はグルーピングし一人に連絡すれば、グループ全体に伝わりそうな人を選んでおくと、簡単かつ的確になる。 また、取扱説明書などがすでに存在しない家や家電/機材のメンテナンス等においても、説明しておきたいと思ったが、そこまでやり切る時間もなく、今後の課題ということになってしまった。 考えてみると、このようなやってもやらなくてもいい、有っても無くてもいいものは、正解がない代わりに個性が出るような気がする。 こだわりの少ないものはいい加減になり、こだわり始めると妙に理屈っぽかったりする。 「私らしい」のである。  

話は変わる。 もう七、八年前になるが、息子の結婚式での出来事。 新郎新婦が参列者をもてなすような今風の披露宴であったが、締めは新郎の父親、その後新郎自らコメントと感謝を述べる進行であった。 私は、全く不要な「三つの坂」的なコメントのつもりで持論を展開。 「人生の中で誰でも三回の主人公の舞台があり、生まれた時、結婚式、亡くなる時。 ただ、自分で認識できるものは結婚式だけ。 主人公を十分楽しんでほしい。」 その後、マイクを握った息子が、準備不足なのか感極まっているのか浮足立った感じで、私は「まだ若いのう~!」と思っていたのだが、後で息子のスピーチの原稿を見せてもらったら、「人生で主人公になる舞台が三回」と書いてある。 
三十ソコソコの彼と私が同じ発想だった訳で、がっかりしたというか、なにか恥ずかしくなった。 最近になって、別の話題から冠婚葬祭という言葉を調べていたら、「冠」元服や成人、「婚」結婚、「葬」葬儀、「祭」死後祀られること、という基本の説明があり、それらの儀式全般を意味するようになったとのこと。 まさに3つの主人公そのままであり、持論でもなんでもなかった事が判明! ますます恥ずかしい! 
 
ステレオタイプ的な使われ方、「男らしく」「スポーツマンらしく」などは、十把一絡げに個性を無視してグルーピングするのだが、「私らしい」という「
〇〇らしい」の活用方法は、私の中の様々な行動を十把一絡げにした「個性」の表現方法である。 その意味では断捨離やエンディングノートは誰の手も借りることができない「私らしさ」の塊である。 冠婚葬祭という儀式そのものは、「私らしさ」はほとんど現れず、同じような服装で同じような進行になるものである。 「祭」以外の三つは誰でもその主人公になることができ、経験することができるものであるが、「祭」祀られる儀式の主人公になることはほぼあり得ない。 この儀式の主人公になるためには、周りの人とは違う「個性」が輝いた人でなければならない。 一般の人、特に昭和男子は「目立たぬようにはしゃがぬように~♫」と「個性」を出しすぎないように生きてきたのだが、断捨離やエンディングノートなど終活が近づくと「個性」に関して考えることが多くなった気がする。 そのちょっとだけ覗かせて来た「個性」も、長年積み重ねて今になってみると、自分の生き方や考え方を形作っている気がする。 そしてその「個性」に一貫性がある方が「私らしく」見えるのではないだろうか。 今後、体の不調で様々な部位が思いのままにならなくなっていくだろう。 どんな場面であっても「私らしく」直面し、一貫性のある振る舞いを続けたいと思う。 のちのち思い出される時に「〇〇らしい」と語られることが、一般人にとっての「祭」なのかもしれない。 


コメント

  1. 人は、炭素、水素、窒素の組み合わせでできてる。そこに、長年貯め込んだ、重金属や、リンが入ってる寿命あるうちは動いてるもの。終わりは、そこいらの不要物と一緒の元素構成だから、
    そんなもんかなーって思ったりもするね。生きてるうちに精一杯、と思うしかないよなー

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