東京を歩く!(パート2続き)

 前回「東京を歩く!」という題名にしながら、東京に辿り着く前に思うことが多く、また出発点の六義園から、岩崎彌太郎のことを考え行動変更することとなった。 とりあえず、まずは六義園の次の目標地点「小石川植物園」に向かうことにする。 通りは大きいのだが、一歩裏道に入ると住宅地である。 マンション、アパート、戸建ての静観な住宅地である。 山手線の楕円形の北側とは言え、さすが山手線の内側である。 平日の午前10時前後、住宅地であるのだが生活臭は少なく、意外と多いのがジョギング、ウォーキングの単独の男性、女性、外国人。 それと、たぶん観光と思われる、動きやすい格好の老夫婦。 私も観光のウォーキングのジャンルなのだろう。 日傘をさした女性とたまにすれ違ったが…。 外国人の旅行客とは会うことはなかった。 千石(せんごく)、白山(はくさん)、小石川とテレビで一度は聞いたことのあるような地名を通りながら満足であった。 途中、豊島区から文京区に変わっている。 学校の多いエリアなのかとワクワクする。 「小石川植物園」自体が東京大学の研究施設である。 施設内には、標本木や野生の林が広がり、遭難しそうな場所があったり、その中に場違いにも日本庭園まである。 江戸幕府の薬園として始まったらしく、青木昆陽が始めたさつまいもの栽培の場所でもある。 東西750mx南北300mの広大な敷地。 正門の場所にはこのあとも悩まされ続けるのだが、正門から一番遠い四角形の角から約半周して入場、それから園内を約1周することになり、植物園だけで3km歩き体力消耗。 途中、住民の方々がピクニックのようにビニールシートを広げていたり、ベンチで読書をしていたり、入場料500円、飲食禁止ではあるが隠れた都民の憩いの場。 貧乏性の私には縁遠い光景であり、植物にも興味をそそられず、ただただ別の世界を体験した!

「ブラタモリ」で紹介されていたが、徳川家康は築城の際、高台の縁(へり)の断層を巧みに利用するようであり、文京区を歩くことイコール坂道の上り下りが非常に多いことに気がついてきた。 「小石川植物園」から水道橋方面、つまり神田川沿いの低い土地のエリアに向かう予定のところ、予定変更してスマホのナビでは認識できない上り下りの坂道を選んでしまったようである。 植物園からは上野方面に向かう道で、こちらは多少生活臭のある下町エリアのようで親しみがある。 くねくねとした路地、玄関横がすぐに縁側で即見取り図が描けそうな造り、小さな門扉の横にプランターの朝顔。 窓が開いているのか、どこからともなく高校野球のテレビ中継の音が聞こえてくる。 クロネコヤマトの宅急便が、荷車のような大きな荷台のついた自転車で配達をしていた。 本当にここは東京なのかと思うくらいである。 しばらく歩くと根津神社に到着。 表門ではなかったらしく、東京で有名な神社のはずが当て外れ。 ちょっと境内に入ると、京都の伏見稲荷をミニチュア化したような身長の高さ程度の鳥居が並び、やはりここも外国人観光客だらけでちょっと興ざめ。 木陰でスマホを見ていると、境内が結構広く正門まで行くと相当に遠回りになることが分かり次を急いだ。 次は、せっかく文京区を歩いているので、東大正門(赤門)から旧岩崎邸庭園へと向かおう。 どちらも上野恩賜公園のそばである。 と思って歩いていると、東京大学も敷地が広い! またも正門ではなく裏門に到着。 このあたりも坂道がすごい! その上、旧岩崎邸庭園は目と鼻の先である。 ここも赤門は断念して、庭園に向かうことにした。 東大裏門からは10分足らずで到着。 ちなみに赤門は、加賀藩主の住まい、つまり大名屋敷で、徳川将軍家の娘を正室に迎える際に建てた門と言うことである。 

旧岩崎邸庭園は、石垣とレンガ塀に囲まれた小高い丘の上にあった。 元大名屋敷を彌太郎が買い取り、数代かけて整備し、三代目の息子久彌の頃東京に寄付したらしい。 当初は表側の客用の洋館の裏には、自分たちの生活の場の和館と大きな庭が広がっていたようであるが、裏側の半分くらいはすでに払い下げられた後で残っていない。 洋館は外から見るだけでも圧巻であり、入園後しばらく眺めていた。 玄関で靴を脱いで中に入る。 ほとんどの内部が公開されている。 玄関を入ってすぐの広々としたスペース、内装も豪華である。 いくつかの部屋に分かれているが、一部屋は気のせいか、意外と狭く感じる。 二階も同様の造りである。 窓が多いからか風通しがよく、真夏でもある程度涼しい。 玄関脇に地下道の入り口があり、隣の平屋建ての建物に移動可能。 ビリヤード場であるが、かなりのスペースで多目的に活用可能と思われる。 出口は裏に隣接する和館を通る。 こちらは、お寺やお城と同様で、天井の低さと廊下のきしむ音が気になる。 観光客用のトイレやお土産コーナーとして使用されていた。 庭園と言うだけあり、裏庭もきれいに整備されていたが、洋館のインパクトが強すぎて、庭園越しに洋館を眺めた感じである。 

旧岩崎邸庭園の坂を下りると、すぐに大通りに出る。 通りの名前はわからないが、地下鉄で言えば、銀座線の通りの一本西側の千代田線の通りである。 南北に走る通りをひたすら南下する。 上野広小路(JRでは御徒町駅)の交差点から末広町、秋葉原と名の知れた地名が続く。 当然のことながら、オフィス街で昼食時も重なり、会社員、外国人観光客、その他私も含めラフな服装のアジア系風の人々、まさに東京の風景を感じながら、歩くこと2km、今日も10kmを裕に超えてしまった。 秋葉原付近では、神田明神下という交差点。 銭形平次で有名な地名。 多少気持ちが騒ぐが、これも道が一本違い、今更、坂道を上り神田明神のお参りも諦める。 神田川にかかる昌平橋を渡り西に向かうと目的の御茶ノ水駅はすぐそこであるが、なぜここで川沿いの道のはずが登り坂! へとへとになりながら目的の御茶ノ水駅に到着する。 ここは日本一有名な楽器店街で、そのために今日の終着点に設定したのである。 ところが、後日
体験を終え記事をまとめるに至り、興味深い事実に出くわしてしまう。 御茶ノ水が楽器店街となったのは、近辺に大学が多かったことに起因するようである。 もちろん文京区の大学も近いのだが…。 この辺りは、東側は町民、西側は武家屋敷、北側の文京区には幕府直轄地があったようで、明治初期にその直轄地に官営学校ができ、その官営学校に近く旧武家屋敷を活用できる場所に、私立の法律学校が乱立したらしい。 今で言うところの、日本大学、明治大学、法政大学、専修大学、中央大学などなど、有名私立大学である。 そこで疑問が湧く。 なぜ法律学校なのか? 長い間日本では殿様がイエスと言えば合法、ノーと言えば違法だったわけで、民主主義的な法律は不要であったということである。 そして、この辺りであれば、官営学校や政府の役人を先生として利用できたらしい(当時は茨城県から通勤はできない)。 この辺りに、人がいて需要があり、先生もいて、土地もあるわけである。 御茶ノ水の楽器店街にたどり着き、改めて、楽器の需要が大きい学生とのつながりと、GHQ撤収時払い下げられた中古楽器により、私の人生くらいは楽器店街として繁栄し続けていることを知る。 日本は長いようで短い歴史であると同時に、若者の力は大きいのである。 私は60歳を過ぎてから、この街でギターとマンドリンを購入した。 自分としては、気持ちはまだまだ若者なのだが…。


コメント

  1. 赤門や、お茶の水がそんな由縁だったとはなー(^^♪

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