病院が間近に!

2024年4月のNHKスペシャルで「Last Days 坂本龍一 最後の日々」という番組があった。 尊敬する坂本龍一の番組と思って見ていると、1時間の番組の中で、どんどん衰えていき、最後の8分は、ナレーションもなく、インタビューと画面上の音楽や音、テロップで終わっている。 本人の死の数時間前まで画像が残っている。 映像の終わりは、米国の自宅の庭先に置いてある木目を生かしたグランドピアノが雨に濡れていた。 まるでドラマのようにその映像を見ていた。 ピアノの映像が終わった時点で、本人は元気に撮影所を後にするような気分で…。 そうでないとすると、こんな映像はいまだかつて見たことがない。 本人、家族、医療関係者、プロダクション、すべての関係者の方々の同意の下、このような映像が後世に残ることになるのである。 すごい!の一言である。

先日、大病を患った友人と話している時の友人の言葉が耳から離れない。 「
体は借り物でこれまでも酷使しすぎてきた」というもの。 脳と身体を切り分けて考えたことがなかった。 脳と身体は一体となって、自分自身の成長を支え、その絶頂期にそのアウトプットは最大となり、それから徐々に衰える…と思っていた。 たぶん、そこまでは一体となって動いたはずであるが、その後は身体の衰えは著しく脳の衰えは緩やかということになる。 身体の機能は、脳を生かすための機能と、身体の能力を増すための機能がある様である。 素人考えで分けてみると、脳が生きていくためには、酸素とブドウ糖が必要なようで、それを摂取する口や鼻、消化器系、呼吸器系の内臓、最終的にそれを脳に運ぶための循環器系の心臓や血管類である。 目・耳・鼻、筋肉類は体の能力を増やすための部位である。 神経は脳の生死には無関係に思えるが、部位の状態を脳に伝えたり、脳の指示を部位に伝えたりしていると考える。 それらのバランスが取れなくなり、持続不可能となるのだろう。 私は幸運にもこの歳になるまで、その脳と身体のバランスについて真剣に考える必要はなかったのだが、考えてみれば、若くして病気やケガで身体の自由がままならない人は、当時から当たり前のようにそのアンバランスを受け入れてきたのだろう。 言葉が見つからない。 

最近病院に行く機会が増えている。 話の流れからしてもさもありなん!と言うところではあるが、自分の中でもルールがあり、その一つは、検診で指摘を受けたものはそれ以上悪化しないように気を付け、定期検査を受ける。 また「東京を歩く!」シリーズその他で、この人なんでこんなに歩くのだろう!と不思議に思われるだろうが、私の中では足の筋肉を使うことと汗をかくことは、美味しいものやアルコールとの取引で欠かせない。 以前の記事では消費エネルギーの換算単位を缶ビールにしているみたいな…。 もう一つは、歳を取ってきてこれまで味わったことのない身体の変化に対して、自分の中での経過観察で異常と判断した場合は、躊躇せずに病院へ行くことである。 それで今回は…。 現在日々頑張っている趣味は、身体を使うものはゴルフ、脳を使うものは囲碁、コンピュータ音楽などと言えるのだが、インターネットを見ては日々ゴルフスウィング改造を繰り返す余り?右脇腹に慢性的な違和感! 筋肉の問題か内臓の問題か判別がつかず病院へ。 生まれて初めての、CTスキャン、MRI検査を経験。 どちらも放射線映像である。 もっと鮮明に映るものと思っていたが、肺のレントゲン映像と余り違いはなかった。 CTは係りの方の声に従って息を吸ったり吐いたり止めたりで、肺のレントゲンの延長線上であったが、MRIはちょっとイメージが付かず、円筒形の閉所内でキョロキョロ。 これも初めての造影剤というヨウ素系の液体を血管に針を入れ、点滴のように注入し続けるという不自由な状態、それでもジブリシリーズのオルゴールの様な音色は心地よく眠気を誘いながら、機械の動作音と艶のないナレーションに従い「吸・吐・止」。 終了後、係りの方に質問。 「吸・吐」は横隔膜を上げるか下げるか、つまり、肺を撮る時は「吸う」、内臓を取る時は「吐く」、「止める」のは状態のキープなのである。 納得! ただ、映像というものは被写体とフィルムは平行状態での画像のはずであるが、被写体の垂直切断面を画像にしている。 洒落ではないが「腑」に落ちない! 若い男性医師の見解では、あまり体に影響の少ない部位の「慢性□□炎」という診察、ただし、最悪の事態も考え切除することになった。

こちらの切迫度とは無関係に、あまりに簡単に決まるものである。 その後はその日のうちに、手術に耐えうる身体の検査、手術そのものに対する必要な説明と署名、術前術後の入院期間の説明など、あっという間の手続き! まるで、お客様の気が変わらない様に振る舞うショップ店員に似ている…と言っては病院に失礼か! 麻酔が効いている間や身体が不自由な間も、脳の活動と脳に直結する信号また日々の吸収排泄もあるだろうから、酸素マスク、点滴、痛み止め、おむつが必要なようである。 おむつはちょっとショックであるが、テレビドラマなどで、緊急の患者がシャツやズボンをハサミで切られているシーンがよくある。 そう言えば、自分の意志の働かない世界は初めての経験である。 こうして、自分である”脳”は、身体が健康なうちは、そんなことは「〇〇でも嫌だ!」と抵抗しているが、手のひらを返すように、「〇〇よりマシだ!」となりながら、様々な経験をしていくのだろう。 この自分の、いや”脳”の順応性の高さは、たまに自分でも不思議に思うことがある。 これまでにも…、不思議な時間の流れなのだが、例えば、結婚式とか発表会とか、そんな瞬間が来ることは想像できないと思っていても、その瞬間は必ずやってきて、慌てる身体を客観的に眺めている自分、つまり”脳”がいたような気がする。 今回の出来事を記事にするかどうか迷ったが、そんな迷いは坂本龍一先生の番組に比べたら本当に些細なことだと思う。 「退職後の喜憂」の避けられない”憂”の一つである。 数日間の入院生活中の自分のお相手役として、”脳”が任命したのは、「すらすら読める源氏物語(上)」という本である。 中高時代の苦手な古典の、しかも苦手な色恋の物語ということで、全く興味を示さなかった分野である。 今年の大河ドラマの紫式部に興味があるのか、主役の吉高由里子に興味があるのかは追求しないが、ちょっとだけ興味が湧いている。 「〇〇気になれば…」怖いものはないが、ゼロパーセントなく「〇〇かもしれない」恐怖はある。 一連の流れが終わったら、小中時代に苦手だった感想文、苦手な古典の、色恋物語の感想文を書くことにしよう。 400字詰め原稿用紙10枚ほどの長編、これもまた未知の世界の…。



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