1982年夏、1年の米国生活を終えて、日本に戻ってきた。 最初にお邪魔した先が、大学卒業後の会社で同僚だったKくんの新婚新居であった。 そこでこともあろうに伸ばし放題のヒゲを剃ったこと、今でも反省している! その時にKくんが、私に聞かせてくれた歌があった。 中森明菜の「少女A」という歌である。 「お前が米国にいる間に、日本はこんなに変わったのだ」と言わんばかりである。 真面目そうに見える不良路線の山口百恵が引退後、かわいい感じの不良路線は確かに新鮮であった。 不良上がりの清純派路線もいたようだが…。 今でも人気の様である。 その時に改めて考えたことがある。 人間は自分のアンテナに引っかかった情報だけは、広さ、深さは別として自分の記憶に刻み込まれていくが、知らない情報は世界にあふれていて、それらは垂れ流しているということ。 特に、当時の私のような言語の違う異国の地の境遇では、メディアや活字の情報はほとんど理解できず、画像情報の範囲内でしか消化されていかない。 米国では安価なグレイハウンドバスで、よく旅行をしたが、あるとき隣り合わせの米国人が私が日本人であることに気づき、「お前スズキ知ってるか?」と話しかけてきた。 私は「知ってるよ、オートバイのメーカー」と応えた。 残念ながら話はそれ以上盛り上がらなかった。 当時の米国人でも日本の総理大臣、スズキ善幸は有名だったようである。(その年の暮れには政権交代になるのだが…)わ、私は当然、日本の総理大臣は知っていたのだが…。
線、平面、立体という数学的には三次元の座標軸で表現されるが、それでは表現できない四次元目の世界を、俗に時間と表現される。 その時間の奥行がその次のステップ(映画の「バック・ツー・ザ・フューチャー」の世界である)。 数学的にはもっと難しい世界の様であるが、とりあえず今回は、人間の脳で処理できる経験は三次元の世界であり、同時に別の世界を経験することはできない、とする。 最近では世界中の出来事が、活字や画像を通じてであれば、ほぼリアルタイムに体験できるようになってはいるが、自分の肌で感じる経験としては限界がある。 そういう意味で、この瞬間、自分が存在するこの地点以外の出来事は基本的には学習の領域でしかない。 その学習がである。 子供の頃、地図や年表が大好きで見ているだけで何時間でも過ごすことができたはずの”少年A”は、なぜか世界史の授業が好きではなかった。 一つの理由はやたらとカタカナが多いこと、パウロとかヨハネとか…。 だが”少年A”だけではないことが、今回の図書館での検索ではっきりした。 ある本の前書きで著者の方も指摘している。 日本史と世界史はまったく別の授業として教えており、その上世界史は中国だったり、ヨーロッパだったり、細切れに行ったり来たりするため、関連性が全く掴めない。 織田信長が突然、長篠の戦いで鉄砲を使って無敵の武田軍に大勝利するのだが、その鉄砲伝来は宣教師フランシスコ・ザビエルで、そのザビエルはスペイン人で、その頃スペインとポルトガルは、世界の植民地の覇権争いの真っ最中、みたいな…関連性である。 前述のカタカナの名前も、パウロは英語読みでポール、ヨハネとジョンとなる。 世間をあっと言わせたビートルズのメンバーの名前も、歴史上の”古臭い”名前だったわけである。
1982年も深堀したくなる。 私が米国で「画像」でしか認識できず、米国を見ることと、英会話に親しむこと以外は何も自分の中に入っていなかった頃、日本では、世界では、何が起こっていたのだろう。 総理大臣の交代以外に日本国内では、東北新幹線・上越新幹線の開通、500円硬貨の発行、IBM産業スパイ事件(日立が米国でメインフレームの情報入手のおとり捜査で摘発)など、まだまだ好調ニッポンを印象付ける出来事ではあるが、すでに近い将来の予兆、家電であれ、車であれ、IT関連であれ、米国からの圧力の始まりがすでに起きている。 また、この年の教科書検定から過去の日本の正当化に関する表現は制限されたが、中国、韓国からの第一次教科書問題が表面化したのもこの年からであり、何かを物語っている。 韓国では軍事政権下からの「ソウルの春」の始まり。 中国では共産主義の基盤をなした地方組織人民公社の解体。 英国領フォークランド島のアルゼンチンによる実効支配と威厳を掛けた英国軍によるその奪還。 ヨーロッパでは、ポーランドの戒厳令、その後の民主化運動の高まり。 ソ連では、金星13号による金星のカラー写真の撮影、また米国とは軍縮モードが高まっている。 中東では、イスラエルが第4次中東戦争で実効支配していたシナイ半島をエジプトに返還。 カンボジアでは、ベトナム戦争終結後に中ソにベトナムを交えた混乱が続いた。 話題はまだまだあった。 岡本綾子の米国ゴルフツアー勝利、黒柳徹子の「窓際のトットちゃん」、神津カンナの「親離れする時に読む本」、森永製菓の新発売「おっとっと」、テレホンカード、「E.T.」もこの年である。
歴史の流れを見ればすべては結果論であるが、1982年は、東西冷戦の終わりの始まり、世界的な民主化の波の始まりであり、ヨーロッパの体力を身に染みて知ったのであり、人口十数億の中国の世界デビューであり、同時に中国・韓国の日本に対する風当たりのきっかけ、経済大国ニッポンのかげり、であったわけである。 長い人生の中で二十代とはそもそもそんな時期であるのだろうが、今にして思えば私は世界情勢の変化は気にも留めず、自分の将来への不安解消と自分の欲求を満たすだけの行為に人生を掛けていたわけである。 無鉄砲にも、ルールを軽んじていて、体の危険さえも顧みずに、確固たるものは見えていないが何かに挑戦しているつもりになっていた。 そのような、仕事や同伴者付きの訪問では絶対にやらなかった様なことも、今となってはよき思い出ではある。 ただ、歳を取ると徐々にナショナリズム的な考え方が強くなり、今の私なら、この1982年の流れに気づいていれば、同じ行動はしなかったかもしれない。 ただ、当時の自分本位の私でも、今のちょっとナショナリズム的な私でも、頭の端のほうで思うかどうか程度で、実際に国のために、世界のために行動するほどの崇高な理念は持ち合わせていなかっただろうと思う。 情報伝達がリアルタイムに近づくことは、より記憶に刻み込まれ易くなるはずであるが、結局は興味の範囲でオーバーフローさせてしまうのであろう。 それも人生これも人生と言いながら…である。



20代は、考えてなかったな―。目の前のことを自分の価値観だけで100%判断してた記憶だけはありますね。収穫は、怖がらずにいろいろなことに飛び込めたことかなー。
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