能登半島地震から1ヶ月が経過し、復旧復興に向けたニュースを耳にするようになり、少しだけホッとしている。 「半島」というくらいなので”島のような地形”であり、交通網の自由度が制限され、リアス式地形の海岸線か山中の谷間のちょっとしかない平らな地形を走る幹線道路が通行止めになると、食料も水も生活物資も人も届かなくなる。 島育ちの私にはその不便さが痛いほど分かる。 台風で新聞や牛乳が来なくなったり、何より最終便に乗り遅れると目前にして島にたどり着けず一夜を過ごす。 そんな中、学校の授業再開のニュースを見て、東日本大震災などで経験したはずなのだが、自分の子供たちが当事者でないと無関心だったようで、たいへん反省しなければならない。 無関心の反省として調べてみると、「学校教育法」という法律の下にある「学校教育法施行規則」という省令には、小学4年から中学3年までは年間1,015時間が標準授業時間と規定されている(低学年は850~980時間と段階的に増加)。 一ヶ月間、授業がなかったということは、数えてみると17日間(約100時間)となり、ちょうど三学期で三月末までに学年の全課程を終了するためには、残り60日で17日分をリカバリーする必要があり、その大変さを再認識する。
災害にあった子供達の学校問題から、教育問題に話をふくらませるのは何か気が引けるが、以前から教育の話は興味があり一度考えてみたく、ご容赦いただきたい。 私達世代は、土曜日も午前中は授業があった。 いわゆる「半ドン」というものである。 年間の土曜日なので多く見ても52日。 年間授業時数を調べてみると、小学校高学年で1,085時間で戦後一番多かった時期である。 まさに「詰め込み教育」と言われた時期である。 その後、校内暴力、いじめ、不登校など様々な問題から「ゆとり教育」が導入される。 導入時期は2002年から2010年の9年間であったが、義務教育の9学年のどこかで影響があるとすると1987年から2003年生まれの子供が恩恵? 影響を受けたことになる。 9年間フルに影響を受けたのは1995から1996年の子供で、高学年の年間授業時数は945時間となっている。 この間で、学校の完全週休2日への移行も実施されている。 その後、世界との学力比較での順位低下が顕著になり、「脱ゆとり教育」へと移行して現在に至るのである。 小学校高学年の年間授業時数比較で、現在をゼロとすると、「詰め込み」はプラス70時間、「ゆとり」はマイナス70時間である。その増減は、一日の授業時間からすると約10日分である。 大したことないようにも見えるが、「詰め込み」と「ゆとり」では20日分。 義務教育期間フルに影響を受けた1995年の子供では、9学年で180日分。 教える内容は同じと考えると半年分後ろ倒し、つまり、高校、大学へと後ろ倒しされることになる。 そう考えると、この影響は大きいのかもしれない。
ただ、自分自身、吾子(俳句用語で我が子)、その他の情報などでの経験でいうと、学力を左右するのは、年間授業時数だけと言って良いのかどうか微妙である。 幼稚園や学校に行くことは、集団生活を学ぶ目的もあるのだが、子供達は「周りとの比較」を覚え、自分を表現して目立ったり、自分を押し殺して順応したりするのである。 それは、優越感/劣等感、競争心などを植え付け、それが過度に刺激されると、非行、いじめ、不登校等につながったり、民主主義とは呼べない”多数決”、自分優先なども覚えるのだろう。 専門家から見るとそう簡単ではないのかもしれないが、私の理屈ではそうなる。 そのような集団の雰囲気を作るのは、子供自身や学校の問題だけでなく家庭の影響が大きいと思う。 実際、結婚し子供を育てる過程において、どうして良いかわからないことだらけだったような気がする。 初心者マークの親は、楽しいことをしたい、異性と付き合いたいと思っていたほんの数年前とのギャップが大きすぎるのである。 自分の生まれ持ったDNAと生まれたあとの体験だけが頼りになる。 親の初心者マークは結局、吾子である限り一生続くのである。 そんな現状が学校の雰囲気を形成していて、その雰囲気の改善をするとすれば、工場の改善活動、以前記事にした「なぜなぜ分析」なら、確実に「自分の生まれ持ったDNAと生まれたあとの体験だけが頼り」のところを改善するだろう。 109回目の記事になると、三年前に記事にしたかどうか定かではなくなるようで、統一教会の誓約書にサインしたか記憶にない大臣とあまり変わらず、とりあえず、検索機能で確認はしているが、米国滞在時の経験を書く。 米国人の友人はまだ学校前の子供と車に乗るときにどこの席に座るか尋ね、答えて実行するまでは車を動かさず、じっと待っていた。 また、教会の日曜学校なるものがあり、ホストファミリーに同行させてもらった時、牧師の説教の後の質問コーナーで、どこかの子供が性についての質問をした。 どう結論づけたかは覚えていないが、驚いたのは、その質問を親も制止しなかったし、周りも失笑することもなく受け止めていたことである。 大人も子供も参加して勉強できるのである。 日本の仏教や神道では”子供の”寺子屋はあったが”大人の”日曜学校はないので、どこかのタイミングで学校の雰囲気を変えるような大人の教育が必要なのかもしれない。
「ゆとり」教育以降、学校での競争、通知表の評点や運動会の徒競走が変化していることを耳にする。 これも、専門家の方たちが十分語り尽くしていることだろうが、私の理屈ではこうである。 学校の授業では、同じ教科書を使って数十人の児童・生徒に同じ内容を進めていく。 解かろうが、物足りなかろうが、(少なくとも「詰め込み」時代は)お構いなしに進行していく。 その結果をデジタル的に数字で並べられるとつらい。 その数字は子供の評価か、学校の評価か、それとも両方か? 義務教育本来の意味に戻ると、生きていくための知識や教養を身につけるものであり、DNAが感じるときに理屈なしに身に付けていくのだろうと思う。 よって、個々の児童・生徒が覚えたい時まで待って、教える時は後付で理屈をつけてあげるとよいのだろう。 ただ、「物足りない」子供達には競争原理が必要で、努力して挑戦してたとえ負けたとしてもその体験は「生きていくプラスアルファ」の教育となるのだろう。 そこで、勝ち残った子供達は”個性や自己主張を発揮できる”大人となって、会社を、社会を、日本を、世界を、トップとして引っ張って行く人材となる。 子供の自由を優先する教育と、より高みを目指す教育の両立が必要だと思う。 ただ、これも心配なのは、学校や社会の仕組みに支えられて勝ち上がったはずの”自己主張の得意な”、極めつけは米国大統領だろうが、そのトップたちがそんな社会や世界への感謝や還元の気持ちを忘れ、自国・自分優先に傾いていくことである。 これも日曜学校のメニューに加えてほしいものである。

同感ですね!(#^.^#)
返信削除