シニアのポジティブは続く?

先日、昨年までお世話になっていた派遣会社の担当者から連絡があった。 以前従事したことのある倉庫全体が5℃前後の食品会社でのお歳暮の詰め合わせの仕事の勧誘である。 こんな時のためにフリーターとして活動しているわけなので、当然引き受けるところ気が進まず、躊躇した挙句断った。 年金生活者兼フリーターとは言え、派遣会社担当者との関係もキープできるし、働き手の減少に対する前向きな姿勢でもあるし、体験によるブログのネタにもなるし、何よりも収入増加になる。 喜んで参加すべきところであるが何か気が進まない。 考えてみるとお歳暮関連の仕事は季節労働者であり、上場企業の倉庫業務を担当する下請企業が募集した仕事で、指揮命令系統、仕事の段取り、作業手順など不明瞭で、指示待ちになることが非常に多い。 現役の頃、若いものに自分がどのように仕事に向き合うか考え、積極的(ポジティブ)に対応することをアドバイスしてきたはずが、この歳になってその指示待ち側で仕事をするのが、なんとも心が痛む。 ハキハキと前向きに、素早く丁寧に仕事をすることは、ひと冬限りの名前も覚えられない季節労働者にはむずかしい。 労働の対価(報酬に限らない)が期待できないのである。 

現在お世話になっている会社はまる二年になり、現役時代の経験を生かした仕事をさせてもらっている。 週三日の仕事で、週末の活動は渋滞・人混み・割高と決まっていたところ、平日にほとんどの用事を済ませることができる。 その上、現役時代はプロジェクト(主に改善活動)の計画を立て、周知し、実行し、(胃が痛くなりながら)実行状況を確認し、効果を評価し結果が出るまで手を尽くすのであるが、今や、計画及び実行の途中までは参画するが、その後の周知、実行、確認、評価、修正は私の役割ではなく、実施の程度は会社側の判断である。 これまでも、年老いてくると体が弱くなることもあり、仕事やプライベートのプレッシャーを持続させると、自然界の掟「弱肉強食」の餌食になる、つまり病気や怪我の基と主張してきた。 この年齢でも「殻の中」に戻れる求人もあるが、フルタイム、報酬と責任はセットになっており、年金をいただきながらの仕事だからこそ、「弱肉強食」の餌食にならずに毎日を過ごすことができているのである。 ただ、最近、会社への愛着や一部の現役社員の苦悩を感じてくると、思わず勇み足をして深入りし、気づいては修正するのである。 自分の全身を使って、様々な問題や不安の風を蹴散らしていく清々しさのようなもの、最近は感じることはない。

様々な保険があり、以前の記事では、「転ばぬ先の杖」で用心して今日の飯が食えなくなるという屁理屈で、スリム化を試みたと書いた。 生命保険から医療保険への切り替えであった。 自分たちの亡くなったあとの手当ではなく、自分たちの生きている間の手当である。 最近の思考では、自分たちの身体に関するスリム化した保険に対して追加傾向で調べ始めた。 まさに、現役中に予算作成などでよく使った「ゼロベース」の考え方で、必要ないものをすべて削ぎ落とし、残ったものに新たに必要と判断するものに順番を付けて追加していく。 その手法を応用したつもりはないのであるが、最近変わった点である。 切り替えた医療保険でのカバー範囲が足りているかどうかである。 契約申請当時、何も考えずに定期的に診断を受けていた部分を診断中と記載したら、保険対象外になっている部位疾病もある。 それに当初の盲点だった気がかりポイントは怪我である。 ほとんどの医療保険は、普通に契約すると含まれていない。 火災時の保険も気になっている。 長年、地震保険で火災もカバーされていると勘違いしていた。 確かに契約条件の中に「火災」の文字はあるのだが、「地震で発生する火災のみ適用」なのである。 自分起因はもちろん”もらい火”のケースもある。 保険自体もどんどん商品が増え、定期的な契約条件のチェックが必要である。 介護保険は一年前の記事の時には、魅力がなかったが最近は認知症への対応が手厚くなっている。 先が見えてくると(悲観的ではなく、おそらくあと百年ではないという意味で…)、自分に降り掛かったアクシデントに対しての再現性は問題である。 すべては今後をポジティブに生きていくための要素かもしれない。 「今日の飯」問題との天秤ではあるが…、屁理屈抜きで…。

趣味の分野でも、少しだけ検討しなければと思い始めた難問がある。 長年働いてきた仕事を離れ、今の生活圏を「殻の内側」と呼ぶとすると、その「殻の外側」とのふれあいの機会である。 音楽活動、囲碁、ブログ、短歌俳句、”フォント画”、立体地図などなど、自分なりにチャレンジしてきたが、すべてパソコンまたは”部屋籠もり”の趣味であり、自分との戦いの趣味である。 「殻の外側」との交流は、ゴルフ、囲碁、飲み会などこれも自分なりに楽しくやってきたつもりだが、気がついてみると全て六十過ぎの白髪の仲間たちとの楽しみである。 手術を受ける者あり、田舎にもどろうとする者あり、なんとなくいつまで続けられるか微妙である。 そもそも車がなければ会えない仲間たちでもある。 免許返納の頃には自動運転の車がないとゴルフも囲碁もないのである。 ブログの掲載を始めた頃は、その外側との接点も含めた「ポジティブに生きていく」を目指したはずであったが、いつの間にか、「殻の中(今の生活圏プラスアルファ)でポジティブに生きている」ような気がしている。 

この先が”無限大ではない”限られた時間を生きていく時に、自分がこれまで培ってきた心情や心地よさを考えてみると、理屈で説明できるものではなく、子供の頃の損得や優劣の価値観に基づいている。 そのことに気づかないうちに、その土台の上にブロックのように新たなものを積み重ねてきたことになる。 慣れ親しんできた知識や心情的な”コト”は、その積み上げたものの理屈を理解することでより分厚くなる。 新たに始めた趣味もどこか慣れ親しんだ”コト”に関連していたりする。 自分の体や家のような"モノ"については、不幸が起きた時の最低レベルの再現を保険に求める。 それら”コト”も”モノ”も、すべて過去を無にしないための対策の様である。 これから先のためには、まったく新しいことをゼロから始めて、楽しいと思うレベル(自分の満足のレベル)まで積み上げるのは難しく、やはり人とのふれあいの中で楽しむ意識が必要だろうと思う。 近未来であれば、現行の白髪の仲間たちも対象になるだろうが、もっと長くなると外側との接点が必要なのだろう。 ただ、この三年間がそうだったように、相手がいる話であり、こちらの意図のようには見つからない。 結局それは、若い頃の友達探しや彼女探しとも共通するということで、つまり若い時から継続する人間、いや生き物の永遠のテーマなのだろう。 その時々で、”殻を破る”行動! 清水の舞台から飛び降りる行動があるのだと思う。 清水の舞台は高い!! 






コメント

  1. 匿名4/06/2024

    残された日が、リアルに見えだすと、いろいろ、考えることもあるね。ま。いっかー で済ましてきたことを決めなくてはいけない・・刻々と決断の日が迫りますわ( ´∀` )

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