真似をするのが嫌な集団

 いつの時代も社員教育はたいへんである。 外資系IT企業の頃はもちろん教育される側であったが、未だにあのときの教育が頭から離れない私の財産になっている。 当時は従業員二百人程の日本法人であったが、数名の教育担当の中で常駐のインストラクターは一人、日本語を話せる米国人で、通常は英語の先生だったのだが、小学校の先生のように様々な分野の社員教育プログラムを担当していた。 人の管理・自分の管理・人権に関するような当時から欧米ではトレンド的な教育プログラムだったのだろう。 転職後、社員教育の必要性に駆られる管理側に立つと、その難しさを痛感する。 外部講習に参加させるのはお金も時間もかかり、かつ既製品は自分たちの学びたいことと微妙に違う。 出張講習はオーダーメイド可能だがますます高価である。 人選しての外部講習は不公平でもあり、また内容を持ち帰っても周りが付いて行けず、失敗に終わったりした。

それが最近では、インターネットでの動画がサクサク動く程度のインフラと技術の進歩のお陰で、会員契約を結ぶとインターネット経由で必要な講習を多数の社員に受講させることができる、という便利な通信教育が出てきた。 これも結局は学びたい人しか身にならないが、安価で時間的制約のない、提供する側は一律に提供でき、少なくともレベルアップの期待が持てる。 以前活用したことがある日本能率協会のイーラーニングという通信教育プログラムのホームページを見てみると、前述の社員教育プログラムで体験したことのある講座と同じタイトルの、英語をカタカナに変えた状態の教材が多数存在する。 ファシリテーション、アンガーマネジメント、ロジカルシンキングなどなど。 ユーザー一覧が掲載されているが有名な会社が目を引く。 ホームページの内容で興味が湧いたのは、400程ある事務・管理系のコースのうちでの人気ランキング。 要するに、誰かの意見ではなく、実際の日本の会社員たちが学ばなければならないと痛感している事柄のランキングである。

ランキングは日々更新されているが、閲覧時の上位ランキングは、知って得する用語(SDGs、働き方解決、CSR、IoT、VR、X-tech、第6次産業などなど)、パワハラのグレイゾーン、マネジメント基本、職場ハラスメント、コンプライアンス基本、情報セキュリティ、メンタルヘルス…と続く。 なんとなく分かるような気がする。 まず「知って得する用語」であるが、3分で解説してくれるらしく私も知りたいもの多し。 造語や外来語の頭文字が多すぎる!わけだが、日本語に的確な表現が存在しない分野が多くなっているということだろう。 ハラスメント・メンタルヘルス系は高度成長期の成功例を知っている私達年代は特に、成功のために強い言葉で部下と接しながら(これがハラスメント!)、メンタルヘルスなる発想さえなく、「気持ちの問題」と言いながらその気持ちが病んでいることは問題外としてきた。 コンプライアンスやマネジメントも系統立てて教えられたことはなく、出る杭は打たれる育ち方だったにも関わらず、経験で覚えることを期待された。 情報セキュリティや、もう少し下のランキングに登場する、クレーム対応やアンガーマネジメントなども、最近のネット社会やその影響(匿名性の問題など)もあり、いつでも、どこでも(学ぼうとしている社員側から見て)加害者が存在する状況である。 やはり社会現象を反映したランキングであり、興味深い。 

私の若い頃の馬鹿げた仮説であるが、一人の普通の人Aがいて、そのAは生まれた子供Bに自分の経験をすべて教える。 そのBはAの経験の上に自分の経験も上乗せできる。 Bの子供C(Aの孫)も同じ工程を踏むと、Cは三代分の経験を持つ特出した人間になるはずである。 野球でよく聞かれる「親子鷹」の様な成功例もたまにはあるが、通常はそうは行かない。 教えられることは、理解できない→理解できる→納得できる→経験する、となっていると思われ、「経験する」まで行かないと身につかない。 せめて「納得できる」まで行かないと、効果はほぼゼロに等しい。 「納得できる」まで行く人は、まずその教えられることに興味がある人である。 つまり、興味を持つ経験を予めさせる必要があるわけである。 そもそも”人間”は…、いや”男性”は…、いや正確には”私の属するある集団の人たち”は、人の真似をするのが嫌いである。 なんとなくだが相手の言動への服従感がある。 しかしながら、教育は真似することから始まるため、「義務教育」ではいやいややらされていて、真似をすることは極力拒絶したいと思いながら育ったのである。 生物の各細胞には脳とは無関係に生きる行為があり、その生物としての「生きる行為」をやりやすくするために教育があるとも言えるのだが、我々集団はこの結びつきを認識しないまま、ただただ真似をすることは嫌な行動となってしまうのである。 不幸にも、その後も「生きる行為」に結びつく行動は自然と身についたりするので(犯罪に手を染めるのもある意味ではその一つ?)、ますます必要性を感じなくなる。 

ただ、「生きるため」だけではなくても学んだり、努力したりすることはあり、その時は知らず知らずに真似をしている。  趣味・特技、それからそれらも含めたただ単に好きなものなどである。 「好きなもの」は範囲が広すぎて、語り尽くせなくなってしまいそうなので、限定的に考えることにするが、趣味・特技に関しては、その動機には、勝つ、上手い、褒められる、のような周りよりも優れているという自覚(優越感?)を持ちたい気持ちがあり、その気持ちをもっと味わうために、または、その気持ちを味わってみたいために、学び、努力するということだろう。 それは、「生きるため」よりは幾分ゆとりのある副題のようなものだろうが、人間の脳にとっては重要な動機付けのようである。 「生きるため」を絶対的ゴールとすると、「優越の自覚のため」は相対的ゴールである。 これらは、微妙に絡み合っていて、「生きるため」は絶対的だが「よりよく生きるため」は相対的である。 今回は、誰もが頭の中では当然無意識に考えていることを文字にしてみたが、私としては幾分スッキリした。 要するに、我々集団には「褒められるために真似をしてもらう!」教育または「褒められて真似をするようになる!」教育が効果的なのである。 キーワードは「褒められる」である。 次の課題は「誰に褒められたいか?」である。



コメント

  1. 匿名4/08/2024

    前から始まる学習は、孫を見ていると、幼児期は、自発的に、保育園などに入ると先生がとる行動や、ビデオに倣って、基本動作を繰り返す。ここまでは、生きていくための基本だから、動物はほっといても2,3日で親についていきながら覚えていくね。小学校は、読み書き計算の基本を教えるから、これも基本的な文化的活動に資する教育(暗記や、繰り返すことで覚えるという学習) 中学校あたりから怪しくなって、体育以外は、序列をつけるためにあるのかなと、振り返って思う。英語は、日本語以外の読み書きだからいいとして。その他のことは、不純な動機があると、あきらめず熱心に打ち込める気がします。

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  2. 匿名4/08/2024

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