敵は自分の中にあり!

 もともと一冊の教科書から俳句の作成を始めたのであるが、この教科書が自分に合っていたのか、俳句だけではなく、短歌、川柳の三点セットであった。 興味があったのは俳句だけであったので、当初は俳句の章だけを読み進めた。 自作の曲の制作のためには、作りたいと思う詞を描くことが先決で、特に興味があったのが、「楽しい」時に「楽しい」という言葉を使うのではなく、目の前の画像を言葉で表現することで「楽しい」を想像させるところである。 その上に、季語という季節を表す言葉を主役にして五七五の十七音で表現するという、超難しい制約がある。 「難しさ」はたまに「もどかしさ」になり、教科書の中の違う章に目を向けたくなる。 短歌は和歌と同様に五七五の上句に七七の下句を付けた三十一音で表現される。 俳句のように季語を入れることも「季重なり」の心配もなく(実は俳句では「季重なり」が一番悩ましく、例えば、「暑い」と「汗」が一句に入るとNG)、感覚や感情を風景を伴って詠むものである。 百人一首でお馴染みな和歌のイメージが強く、意味の分からない昔の言葉や文法があると思っていたが、短歌は正岡子規の改革のお陰で口語体で現代風である。 俳句よりも自由で十四音も多いので、様々なことが表現できる点、ストレスが少ない。 以下、先日の旅行の際に詠んだ俳句と短歌(二作目)、初心者の私にうまく表現できるだろうか。

(俳句)眼下の夜景空港は浸む(しむ)秋気
(短歌)眼下には室蘭の夜輝いて旅の予定に思い巡らす

どちらも心境は同じである。 飛行機が低空飛行になり、室蘭の工場の灯りを見ながら、着陸態勢に入る。 明日からの楽しい思いを書きたいが、俳句では言葉が足りず選べず、秋の入りの旅行で空港に着いたら寒かったとしながら、楽しみは奥にとどめたつもりだが…。 短歌では明日から楽しみと書ける。(思いがけない室蘭の夜景に写真を撮るのが間に合わず、掲載の写真は室蘭市の観光案内から引用)

もう一つの新しい試みを紹介する。 以前、タイプライターの文字の濃淡で、名画モナリザを表現した作品を見たことがあり、一度やってみたいと思っていた。 大まかな作業は想像が点く。 アナログ・デジタル変換の始まりの頃である。 描きたい画像を規則正しく細分化し、小さい碁盤の目のようなマスを作る。 その一つのマスをタイプライターの文字で考え、一マスずつ色の濃淡を決めて、タイプライターで表現する。 薄い色は簡単な文字のIとかUを使い、濃い色は密度の濃い文字のBとかMを使う。 定位置に戻すことができるので、文字を重ねるともっと濃い色が表現できる。 この作業を泥臭く根気強く繰り返せばできるはずである。 ただ、問題点も容易に想像できた。 正確なマス目作り。 製図板・T定規(またはドラフターという製図器具)がないと正確な直角平行のマス目は作れない。 また、タイプライターの改行・改ページの隙間をどうするか。 諦めるしかなかったわけである。 もう一つは、アナログ・デジタル変換の”あるある”として、アナログ画像をできるだけ大きく、デジタルの区切りはできるだけ小さく、である。 最近、それらの克服方法が頭に浮かび、頭から離れず、どうしてもやってみたくなったのである。 私がパソコンに接してから約40年になるが、その間、公私にわたり一番使う頻度が多いのが、表計算ソフト、有名なマイクロソフトのエクセルまたはその類似品である。 すでに碁盤の目ができていて、表のマス目と文字の大きさを合わせて一マス一文字になるようにする。 その表の背景に描きたい画像を貼り付けると、画像を背景に文字入力ができる。 マイクロソフトフォトという写真管理のソフトのフィルター機能で、白黒画像に変換し、白~灰色~黒を数段階に分ける。 私は、このブログに関係する文字から文字の密度を意識して、「(空白)、日、貝、憂、職」それに薄い系フォントと濃い系フォントを織り交ぜることで、七段階に分けることにした。 あとは根気である。 我慢強く続けることである。 ただ、パソコンはやはり便利で、コピーペースト、しかも数文字一挙に貼り付けることができる。 ただ、結局は微妙に濃淡が変わるアナログなところを、七種類のデジタルな濃淡に決めなければならない。 AIでもあれば、数値に置き換えて簡単にできるところ、やはり、センスの問題になる。 人間味とでも言っておこう。 これでも、縦139文字・横156文字に写真を細分化し、文字数7588、空白14096で濃淡を表現した。 最後に、背景を削除し画面を縮小すると濃縮され、あっ!と驚いた。 我ながら面白い作品になったと思っているので、今回の掲載となったわけだが、思い返せば、元々の画像もスマホでの撮影でありデジタル情報である。 よって、アナログ・デジタル変換の挑戦ではなく、”精密”デジタル・”手作業”デジタル変換ということになる。 意味があったのかなかったのかよく考えてみよう!

誰にでも苦手なものがある。 私の場合、文章や絵の創作は子供の頃から苦手であった。 二大要素は、「全体構想」と「細部表現」の描写の正確性のように思っている。 殻の外の生活での時間の余裕と道具の進化などで全体の正確性は多少カバーされ、できなかったことに手が届くようになると、あとは、我慢、根気の世界で苦手なものが体験可能になっていく。 ただ、スポーツ系(体を使って行うもの)は、これまで継続してきた悪い筋肉の動きとこれからの老化による筋肉の衰えという二つの変数を未だに脳は正しく認識できておらず、気持ちが悪いまま苦戦している。 もう一つ最近気づいている問題。 狭い歩道を歩いていて、前から自転車が歩道を通ってくると、なんとなく心の中で「自転車は車道を通るのがルール!」と叫んでいる。 警報ベルでも鳴らされると余計に…である。 必要以上に正義感・自己主張が表面化するときがあり、自分でも困惑する。 頭の中では、昔なら数通りの策が並列に思い浮かんだところ、今は一つの策で支配されてしまう、思考の硬直を感じる。 そんなことに気づきながらも、これまで苦手だったものを思い浮かべてみると…、塩辛、セロリ、演歌、ダンス、スピーチ、いろいろある。 今更と思う気持ちもあるが、苦手で諦めていたものの中にも、新たな感触を得られるものもあるかもしれない。 カギとなるのは、過去と現在の脳内の整理、筋肉と脳の衰えの気づき、道具の進化に頼ること、思ったらやってみること、それから…「潔く」ならないことである。 つまり……、他人との比較ではなく、「敵は自分の中にあり」である。 わかっているがそれができない自分がいる。

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