パソコンや周辺機器の進化もあり、パソコンソフトも進化を続けている。 最近では無料でダウンロードできるソフトで、十分の楽しめるほどである。 私は、囲碁ソフトのほかに麻雀ソフトもダウンロードしている。 麻雀は若い頃不完全燃焼だったこともあり、たまに楽しんでいるが、パソコンソフトで要注意なのは、ハマり始めると制御不能になり、余暇を飛び越えて生活や趣味を圧迫する(昔、スーパーマリオに深夜までハマった経験は誰でもあるだろう。)。 わかっちゃいるけど止められない!! 麻雀ソフトにハマっていて、改めて気づいたことがある。 麻雀というゲームは4人で行なう。 簡単な手は配点が低いが速くでき、難しい手は配点が高いが時間がかかる。 牌の引き方にも流れというものがあり、上がる確率、振り込む(自分の捨てた牌が相手に当たる)確率も共に25%なのだが、それよりも少し高い確率で少し高い手で上がれば、または、我慢して少し振り込まないようにすると勝てるわけである。 ところが最近の自己分析では、毎ゲームすべて上がろうとしており、なおかつ、自分のお気に入りの手ができそうなときは、振り込んでしまうとゲームが終わることもいとわず、危険な牌を打ち出すのである。 なぜだか”潔く”なってしまうのである。
”潔さ”ってなんだろう! 辞書では「汚れがない、思い切りがよい、道に反するところがない」となるが、私的には「結果にこだわらず、その結果に導いた考え方や行動を重視する行為」となる。 英語ではどうだろうか? どうも該当する単語が見つからず、一番近いものは「Sportsmanlike(スポーツマンのような)」であった。 知り合いの米国に長く住んでいた友人に聞いても、単語で言い表わすのは難しいらしい。 ただ、自分の中では何か違和感を残してきた。 江戸時代の階級制度、士農工商というものがある。 江戸時代後期の人口は約3000万人で、士族7%、町人(工商)5%、農業85%、その他数%である。 教育を受けたのは「士✕✕商」の子供たち10%弱、「✕農工✕」の子供たち約90%は読み書きもできない。 その割には日本の文化の根底に流れる教育、いや各家庭でのしつけのようなもの自体が偏っていないだろうか。 なにか”潔さ”があり、結果ではなくそこに行きつく考え方を重視しているような気がする。 私はその大本は、明治維新で失業した200万人以上の武士たちが、国の形を成すために公務員(役所、警察、教育、郵政、消防など)となり、社会を支えた。 書いてあること、起こっていることを理解する学問は新しいとしても、考え方や”人の道”的なものは、そのまま庶民の中に浸透していったのではなかろうか。 私の違和感、”潔さ”はその名残ではなかろうか。 それ以外でも、世界に恐れられる「道がきれい」「落とし物が戻る」「災害時の整然さ」などもその名残のような気がする。 国民すべてが「武士の”人の道”的考え方を持つ」とすると恐ろしい!
鎖国解除以降、日本に影響を与え続けた主要な国は、英国、米国、ロシア、中国である。 どの国も当然のことながら、自国の国益に適うように日本を操りたいわけである。 開国させたのは、海洋補給基地が欲しい米国であったが、それ以前から”親切に”操り続けたのは英国であった。 周回遅れの日本は欧米に追いつくことだけを考え、世界にデビューし、勝ち目のないと思われた二つの戦争(日清日露)に名目勝利し、表舞台に立ったかに見えたが、度重なる武士道に反する行為に我慢ならず一線を越える。 意外と強かったためか英国は、太平洋を挟んだ米国に助けを求める。 米国は大義名分がほしく、彼らのいかにも西部劇っぽい理屈、正当防衛に結びつける挑発行為。 国の広さ、人口、資金力、資源、どれをとっても勝てる相手ではないとわかっていても、武士道は許さない! この”潔さ”を枕詞にする武士道精神! 曲がったことが嫌いな、自分を過大評価した、誇り高き精神が、災いしたのである。 当の英国は、日本に占領された植民地の多くが戦後独立の機運が芽生えて衰退していく。
勝った米国は、この武士道精神の占領地日本の国民性と思いの外早く浸透していく共産思想、の排除を柱とした政策(通称、民主化と平和主義)を目指すも、なんとなく不完全なまま、見届けることなくフェーズアウトしていく。 ただ結果は米国が敷いた路線以上で、政治経済の分野で米国を頼りながら成長を続ける。 世界第二の経済大国とまで言われるも、その得意分野と目されていた「電子立国ニッポン」の半導体産業は、米国の輸入規制が始まると、あえなく衰退してしまった。 米国一国集中的な付き合いの結果である。 一時期「NOと言える日本」がベストセラーになったが、それ以降、米国関係の現状打破を目指す主張も下火である。 私も米国本社のグローバルなプロジェクトに参加した経験はあるが、英語の問題だけではなく、自己主張少なめ、自己犠牲的で、裏切らない、武士道精神を演じてしまった。
今年は、明治維新と終戦記念日の関係で言うと、戦前77年、戦後78年ということになる。 私から見ると戦前も戦後も、ちょっと中身は違うが武士道精神の上に成り立っていると思っている。 武士はもともと軍人であり、主君の災いには死を覚悟して戦うのであるが、平和な世になると軍人兼公務員になっている。 戦前77年の武士道は、「主君である殿」が「天皇」に代わっただけで、主君のために自分の欲や趣向や命までも犠牲にして、与えられた”公務員的仕事”に尽力する。 その自分を律するプロセスがいかにも”潔く”いかにも武士道なのである。 実は西洋にも騎士道と言われる同じような”道”があるようだが、命までは犠牲にしないらしい。 戦後78年の武士道は、やはり「主君である会社トップ」とその向こうに物やサービスを買ってくれる米国がいて、米国とうまくやりたい会社のために、自分の欲や趣向を律することを継続してきた。(命までは継続しなかったが…。) それが世界の中では(特に主君のいない米国人たちには)サプライズで、日本人は、それと接する時に必要以上に自分の中の武士道を登場させるようである。 私が気持ちが悪いのは(自分の行動は自分で変えればよいのだが…)、その自分の気持ちを律する姿が評価を受けており(または評価を受けていると思い込んでおり)、それが無視されると、いつでも”潔く”なれそうな気でいるところである。 ”潔く”の言葉の裏には、なにか戦わず(議論なく)して諦めている姿が見える。 「戦争は二度と…」「原爆は二度と…」という表面的な願いのようなものと内面的な”潔さ”、何か相反する思いがするのは私だけだろうか?

物事に対し逃げないこと、対峙すること・・・騎士道、武士道にもつながるような気がするけど。スポーツの中での潔さって、負けを受け入れることにあるような気がする。No Side・・
返信削除動物の世界で、親は、子が死んだとき、しばらくはそばを離れないが、時間の経過の中で、群れに帰っていく・・子供の死を受け入れ、次に向かう・・ありのままに Just as it is これまでの人生で、何度か、終わりに接したし、今後も巡り合うだろうけど、Just as it is でいられるよう、日々かみしめて生きようと思いました。ありがとう(^^♪