マイナンバーカードのその後、以前記事にした医院での最近の定期検査では、 当たり前のように保険証の提示を求められ、意地悪くもマイナンバーカードもありますが…と尋ねると、どちらでも対応可能ということであったが、保険証主流であることは確かである。 今回のマイナンバーカードのトラブルで改めて納得したのは、制度設計の問題。 コンピュータの活用は便利であるが、あれもこれもと入れすぎると失敗するケースが多く、旗振り役のリーダーシップが重要である。 マイナンバーというくらいだから「個人番号」である。 戸籍、税金その他日本の殆どの制度の基本単位は「世帯」で、「世帯主」が家族を代表する。 よって、マイナンバーの活用は「個人」と「世帯」をつなぐことになる。 やりたいことは理解できるが、私でも分かることは、アナログとデジタルのように、二つの違う構造のものを接続させるのは、作る側も使う側も容易ではない。
前回の記事からの継続。 この時期にあわただしく帰省をしたのには二つの理由があった。 一つはコロナ規制開けの施設にいる母親との面会で、思い立った時にやるべきと思った。 もう一つは墓じまい。 私の身勝手な予定で残念ながらお寺側の日程と合わず立ち合えなかったが、新しいお寺の納骨堂は確認することができた。 以前の記事に書いたが、日本の火葬の定着は戦後でそれまでは土葬。 我が家は父親の代で墓を掘り起こして、骨壺に入れて納骨しなおしたようで、私が小学校低学年の頃お骨を天日干しにしているところを、夏休みの絵日記に書いた記憶がある。 さぞかし気味の悪い絵日記だったろう。 しかし、お寺の納骨堂に入れるためには、それら何体分もの再火葬が必要となるらしく、自分の墓を考えるだけのエンディングノートの私とは、桁違いに手間のかかる対応である。 「世帯」ではなく「家」という単位である。
我が家は戸籍上の苗字が許された後の記録も、天日干しで整理した結果も、そのルーツは四世代分、明治からの記録である。 五世代以前はどこで永眠しているのか。 少なくともルーツは継続しているはずである。 ちなみに、天皇家は126代、約2700年である。 「世帯」も「家」も、「個人」よりも大きな括りであり、管理するには便利だったと思われる。

最近国会で議題になったのが、夫婦別姓とダイバーシティ。 G7サミットの成功には欠かせないテーマであり、内政干渉に近いどこかの国の圧力によることは明白であり、意味のある審議と法令化が出来ないままに突入し、なんとなく成功裏に終わったことになっている。 私が生まれたのは昭和、日本国憲法が発布され新しい国の形で運営され始めてから八年後である。 当時は、国の形は変わってもあらゆる面で発展途上であった。 というか、経済発展とともに一部だけ先進国になったのだろうが、多くは発展途上のまま今日に至っているような気がする(「発展」の定義も議論したくなるが…)。 実家で”男らしい”子供には育たなかった私は、口には出さないがその後も男女の立ち位置に関しては違和感を覚え続けた。 その一つが夫婦別姓も関係する「結婚」である。 半自動的に、場所、世帯主、名字、稼ぎ役(逆に言うと家を守る役)が決まる。 違和感を持つだけで通り過ぎてしまったが、環境が変わる側は大変だったろう。 子供が生まれると私の経験を踏まえて、「・・らしい」は努力して使用しないようにしていた。 しかし、その努力は幼稚園に通い始めると無意味であったことに気づく。 ちょうど野菜を味噌の中に漬ける様に、浸透圧のような作用が働く。 つまり、集団生活や教育の中で、「・・らしい」括りの中で生きることを学ぶのである。 私の違和感はそれ以外でも…、まるで男子校のような工学部系学部の構内、”事務のお姉さん”という標準語とその典型的な制服、給料格差、トイレの面積などなど(男女間だけではないものもあるが)…。 最近は多少は改善しているだろうか?
ダイバーシティとなるとますます難しいテーマになる。 このことを多く話ができるほど理解しているわけではないが、このテーマを考えると「昭和のおっさん」は感じることがある。 ここ数年のコロナウィルスの症状で倦怠感というのがあったが、会社時代であれば、意識が足りない、やる気の問題などの精神論として一蹴してしまっていたろう。 なにせ、夏の部活は汗をかくと疲れるからと言って、水を飲ませなかった時代育ちである。 ダイバーシティに関しても、当時はそんな用語もなく(今でも日本語にできずにカタカナで表現している)、0か1かでその中間は精神論で終わらせていたろう。 そんな健常者「昭和のおっさん」社会に順応すること、「個人」は「全体の中の一部」にならんと努力するものだったのである。
これまでの国の仕組みは、管理が容易にできることもあり、グルーピングされてきたのだろう。 よって、幼い頃からそのことに順応するように教育、経験を積ませるのだろう。 そのグルーピングのほとんどは、事実に基づくものであったり、自己申告だったりするが、証明書を持ち歩いているわけではなく、傍からみると「・・らしい」人として判断されている。 例えば、いちいち性器を確認することができないとすると、性別はまさに「・・らしい」であり、「男らしい」の「らしい」を省略した形である。 外国人、障がい者、高齢者…なども同様で、「・・らしい」でグルーピングされている。 その特徴が多様化してくると(自分の想像や体験の外にあるものも出てきて…)、「グルーピング」できにくくなり、「個人」として認めるしかないことにならないだろうか。 地球の人口は80億人なので80億とおりの「個体」として…。 そんな社会はどうなるのだろう! 工学部も華やかに? デートは割り勘が当たり前? PTAはどんな先生と親の集まりに…? 墓地は…? 税金は…? 未熟な制度の中で頑張ってきた「昭和のおっさん」には、この制度設計のリーダーシップは無理なようである。 また、そもそも自然界は弱肉強食、強いものはしたいように弱いものは我慢して生きているのが当然と思ってきたが、限られた地球上で生を得たものは皆平等なのである。 世帯の収支、世帯の幸せに追われた「昭和のおっさん」からすると、平等な社会、平等な幸せのために地球全体の収支バランスを考える世界でなければならず、民主主義以上に超高度な社会! 個人個人の超高度な倫理観! 残念ながら想像もできない。 「昭和のおっさん」は、こんな未知の世界への入り口で何を思い、何を行うのか!
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家庭の平和と安定を願い、ショーむないと思われる慣習をかいくぐり、ちょっぴり自分の意地を通す・・・みたいな庶民の価値観が原点で、世の中の取りまとめは、180度違う意見や、ちょっとづつ論点の異なるような話も、そりゃそうやわな~ と納得させなきゃ進まないとすると、まとまらんように思います。文句言われても、ある信念と価値観に基づき、まずは、実施までこぎつけ、その後変えていくような民主主義本来の寛容さがいるんと違うのでしょうか?いつまでも、タブロイド紙や週刊誌見て、体制批判だけしてるおっちゃん、おじいちゃん、おばちゃん、おばあちゃんの一票を気にしてるだけの、ことなかれ、決めるふりして何にもしない・・・ようなことはやめにせんとなー と思う今日この頃!(^^)!
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