カラオケという文化がある。 我々世代はカラオケの変遷を肌で感じて生きてきた。 ちょうど合法的にお酒を飲めるようになった頃、安価な居酒屋に出入りするようになるが、たまに会社の上司や先輩から、女性従業員がいる「スナック」に連れて行ってもらうようになり、そのスナックにカラオケが出現した。 当時は、有線放送やデュークボックスで、プロの曲が流れていたが、その歌の部分が入っていない「空オーケストラ」で、歌はお客さんが歌うスタイルである。 子供の頃から、飲んで本音ベースで語り合う、たまに盛り上げるために手拍子でオハコの軍歌や演歌を歌うヨッパライを見てきた。 私は前者が好きで後者は好きではなかった。 本音の会話を阻害し、聞きたくもない歌を聞かされるわけである。 家系的に言っても、音域が低くドラ声で、好みではない軍歌とか村田英雄の曲向きである。 なんとなくコンプレックスで、次第に、高音を「必死」で出す、強弱を「必死」で付けるような選曲と歌い方になり(後期の長渕剛みたいな…)、「必死」で歌わなければ「やった」感が出ないと思うようになる。
私の中では、「カラオケ」に限らず「必死でやること」により、「やった」という思いと自分の限界を抜け出している気持ちが生まれ、満足感と安心感が得られていた。 同じことを繰り返しやってみた結果をグラフにすると、横軸に結果、縦軸に頻度(回数)をプロットすることでヒストグラムと呼ばれる棒グラフができ、その棒グラフの高いところを結ぶと、左右対称の裾広がりの放物線の様な形ができ、統計の世界ではそれを正規分布と呼ぶ。 そのグラフを横軸で6等分にすると、中心部の2区域で68%、右の1区域(結果のよい)は約4%、左の1区域(結果の悪い)ももちろん約4%となるらしい。 つまり、25回やって1回だけ満足する結果に遭遇する。 一番良い結果を上限、一番悪い結果を下限、一番頻度が高いところを中央値とすると、「必死でやること」はバラツキが増え、結果の上限と下限の幅が広くなり、中央値の高さが低くなる。 基礎体力を付ける、コツをつかむ、知識を付けるなどなど、中央値を右にずらすために何かを改善しないと、「必死」=「良い結果」にはならない。 私の場合、趣味に費やしてきたのは自分の費やせるものの5%程度だったろう。 長年、「必死」=「良い結果」と信じてきたが、5%程度の消費では中央値を右にずらす改善にはつながらず…。 結果のための「必死」ではなく改善のための「必死」でなければ…。 結果のための「必死」はバラツキを増やすだけ? 私の3G(ギター(音楽)、囲碁、ゴルフ)で考察してみることにする。
ギターにしろ、その他の楽器にしろ、若い頃は仲間と課題曲を決めて個人練習、ある程度できてきたら音合わせとなるが、背伸びしながら「必死で」演奏するケースが多く、”音合わせ”どころか、曲の流れに合わせることが精いっぱいで、音を楽しむまでには至らず。 しかし、仲間と”音合わせ”ではなく、最近はパソコンとの”音合わせ”となり、数小節ごとに合わせるため、若い時同様「必死で」がんばるわけで、その必死さゆえに、また予期せぬ感動を得ることは皆無であり気持ちは弾まない。 かつ、一曲通して弾き語れる曲も見当たらない。 以前、歳を取ったらそれなりに味のある歌や演奏ができるようになる!と信じていたが、「必死さ」中には趣きも湧かない味もない。 ”趣味”と呼べる要素はないということか!
殻の外でのゴルフは、現在暮らしの中で15%近くは費やしていると思われる。 ただ、費やせどもスコアにつながらない日々である。 以前は、曲がらず遠くに飛ばすために、ただただ練習してきた(5%の一部を費やして)。 体力や知識を付けたわけではないので、コツをつかむためだったはずだが、結局、球と向き合うと「必死で」振るのである。 「必死で」振りながら曲がらず遠くに飛ばすコツを身に付けたかったようである。 結果、5%の一部消費程度ではコツは身につかず、統計学的には「必死さ」ゆえのバラツキと25回に1回程度の成功を求めたのである。 しかし、最近では体力の衰えもあり、ネットでのいろんな番組もあり、多少は学習効果もあり、理屈と体力を考えるようになってきている。 進歩である。 中央値を右にずらす試みではなく、中央値を高くしてバラツキを減らす試みのつもりである。 ただ、気がかりなのは、練習場で満足な球を数発続けた後で、「よしあと一球で今日の練習は終了!」と思うだけで、なぜあんな球になるのか!? なぜ「必死で」振るのか!
最近の囲碁ソフトは強い! コンピュータは細部の読みはまったく間違うことがなく、こちらの弱いところは的確に突いて来て、コテンパンにやられてしまう。 コテンパンにやられ続けて気づいたことがある。 囲碁というゲームは、全体のバランスと細部の読みを競うゲームである。 全体のバランスはどちらかというと人間の感覚(アナログ)、細部の読みはデジタルである。 全体のバランスはゲームの表情と優劣を左右し、細部の読みは勝負に直結する。 私の囲碁スタイルは、以前から、こちらの弱いところを安全策で補強するスタイルは好きではなく、「必死」に読んでスレスレのところで勝負するのが好きであった。 つまり、コンピュータの長所が私の主戦場なのである。 もっと”人間らしい”ゲームを、勝負にこだわらないゲームを考えなければならない。 勝負にこだわり細部の読みや相手のミスに乗じるのではなく、全体のバランスを楽しむスタイルの方が穏やかな高齢者らしい。 できるだろうか! 楽しいだろうか!
考えてみると、趣味だけに限ったことではないと思うが、人生の中では幾度も、自分自身の心身に関わる、または自分を取り巻く環境に関わる変化点があり、その都度自分の中で起きているその分岐点を無意識に通過しながら今日に至ったわけである。 辿った道はよかったのだろうか? 他の分岐点を選択していたら…と興味はあるが、たぶんこれでよかったのだと自分には言い聞かせる。 ただ、これまでずっとよりよい結果のために活動してきたと思っていて、今回の考察では、「必死さ」の結果の善し悪しよりも、「必死さ」を抑えた結果の安定の方が、これから先の自身の生きがいや仲間との関係には有効なようである。 どのタイミングでその分岐点に反応するべきかはわらないが、自分の中では必死ではないがゆえにその趣味の本当の楽しさに触れ、バラツキを減らすことで結果もよくなることは有り得ると思っている。 そして、今回のブログの記事が私の分岐点だったと、将来楽しく振り返りたいものである。




過去、趣味の入口には、必ず、不届きな邪心があったように思います。やはり、よこしまな気持ちに起因する不純な動機が、湧き出るような執念と一心不乱に没頭するエネルギー源ではないかと考えております。ダミーでも、よこしまな心に結び付けるとスムーズに事が運ぶのでは・・
返信削除ちなみに、わたくしは、お取引へ出向くとき、不純な気持ちで、事業所内を探索しております。