政治の季節

 政治の季節、統一地方選挙は興味深かった。 私は選挙権を得た頃、自分としては選挙での意思表示は放棄しないが、未熟な自分の意見が政治に反映しないように、たぶん当選しないだろう党の候補者に投票していた時期があった。 そんなヤツに語る資格があるのかどうかは疑問ではあるが、最近の低投票率には言いたいことはある。 我が市の市会議員選挙、投票率約40%、得票数最低の当選者は1100票余り。 有権者約11万人であるので1%の得票で当選、住民14万人の市政を任せるには、わずか過ぎる投票者の代表として、市政のために意見を述べる人になるわけである。 投票の「義務」を果たさなかった人たちは、私の価値判断の缶ビール換算では、数百本分の購入を控えて地方税を納税したわけだが、その代わりとなる自分が欲しい政策を選ぶ権利を行使せず、つまり、その”見返り”を放棄してしまった訳である。 「見返り」という言葉は適切でないかも…。

民主主義の”民主”を唯一確認でき主張できる制度が選挙。 投票率50%を下回るということは、誰に投票するかの話ではなく、選挙制度を認めるかどうかの話と同じではないだろうか。 それで50%を下回るということは、我々の民主主義を認めないということ? 突然隣の国を攻撃したり、国民の餓死よりもミサイル開発を優先したり、それに対する反対は取り上げられない! 今の日本はそれほどひどくはないので安心ということか! そもそも我々は、国民に与えられている民主の義務と権利を理解して、実行しているのだろうか? 少なくとも私は、はずかしながら義務よりも権利や自由に重きをおいて生きてきた。 「民主」つまり民が主(あるじ)であるわけである。 「国の主」も「会社の主」も、「主」にふさわしい(最初はそうでなくても実戦経験を積みながら)知識や判断を試行錯誤しながら身に付けていく。 自分の家の前の道路の整備とか、自分は子供がまだ小さいから子供手当とか、高齢者の医療費無料化のお年寄りの意見とか…、そんな意見ではなく、個人個人が「主」にふさわしい判断や基準を身に付けようとしなければ…、と思う。 我が市の市会議員選挙候補者の公約に目を向けてみた。 32名の候補者の公約を多い順に並べると、安心安全な街づくり、子育て支援、地場産業の育成、高齢者のサポート、街の活性化、…と続く。 勝手にいくつかに分類してみる。 パイを拡大しての収入増、パイを奪い合う収入増、収入につながらないただの経費増(選挙では人気取りの公約)、改善活動による経費減。 私は今の日本の現状では、市議会議員選挙とは言え、パイの純増と改善活動を押したいが、公約の80%はそれ以外である。 有権者には”耳障りのよい”、痛みを伴わない公約である。 「主」にふさわしい判断や基準を…。

実は今年度から町内会の班長である。 十数世帯の班であるので十数年ぶりの役割であるが、やることは前回とあまり変わらないと思いつつ、とりあえず今期初の自治会に参加した(自治会は町内会の中の地区ごとの分科会)。 前回も感じてはいたが、自治会は私が参加したことのある会議体でもっとも難しいものの一つである。 生い立ちも、仕事も、年齢も、性別も、目的も違う集まり、私にとっては”殻の外”の人たちの集まりである。 以前からその難しさを感じてはいたが、私の中でのこの十数年間の殻の中での経験(工場勤務)で、その違和感や困難さがより鮮明になった気がする。 殻の中では所属する団体(会社)の成功(自分の収入の増加にも間接的にヒット)のために最大の効率と最大の結果を得ようとする。 工場での安全衛生やISO(国際基準)の活動では、(トップの)方針、役割、やり方を明文化し、周知徹底し改善を繰り返し、その最大効率、最大結果を達成する。 それを実行できた会社や工場が成功する。(残念ながら私が勤務した工場は成功だったのか疑問である。) 私が経験したそのやり方は、どの集まりにおいても”無敵”であると考えていた。 ところがである。 自治会で使われる資料や回覧の内容が、明快ではなくぼんやりしている。 自分の経験を基にすると、役割を明確にし、回覧内容に理屈が通るように…と思うのだが、どうもそう考えてる私こそが異人種のような空気に包まれている。 ここにはここの”殻”があるようである。

町内会の起源は、秀吉の時代までさかのぼる「五人衆」なるもので、住民を五人一組にして助け合う仕組みであった。 ときの支配者は相互統制に利用したらしいが、地縁血縁的な結びつきで継続されてきたようである。 昭和の戦前には、行政の仕組みとして整備強化が図られたようで、住民の団結、国策の浸透、思想・経済の統制などに利用されたことは容易に想像がつく。 当時から、回覧板や常会により、地域住民の様々な情報伝達手段と防火防災など共同作業の仕組みを担った。 よって、戦後のGHQは町内会を廃止させたが、その後復活されることになる。 現在では、以前の様な地縁血縁的な結びつきは薄く、宅地化・核家族化・多様な交通手段により、地縁血縁的な地域に多種多様な住民が移り住むようになる。 そんな地域に核家族の家庭が混在すると、夏祭りの氏神がどこの神社なのかもわからないままに、町会費に合わせて「夏祭り代」として半強制的に支払うことになる。 「長崎くんち」しか祭りと思っていない私の様なよそ者は困惑しながらも従う。 現に、ほかの町内会の知り合いの会長の話では、町内に引っ越してきても町内会に入会しない世帯が増えているらしく、会長の重要な仕事はその入会の説得らしい。 

外資系に勤めていた頃、「会議室内では活発な議論を…! 会議後には引きずらない!」と指導を受けてきた。 まさに、ラグビーで有名になった「ノーサイド」である。 必死で練習して必死で戦うスポーツの世界では、対戦後は清々しく、その指導は有り得るかもしれないが、そんな理想の姿はスポーツ以外ではいまだ経験したことがない。 おそらく、「五人衆」の地縁血縁的なつながりの強い(例えば、村八分という言葉のように)日本の集落文化には不向きな姿勢なのかもしれない。 町内会は地方自治の最小単位であり、明快ではない役割ややり方の中で、「ノーサイド」にはならない議論のあり方も、すべて包み込んだ形で、白黒はっきりとは表明しない曖昧さをよしとしてきたように思える。 この”特有の殻”が日本の「政治」なのだろうと再認識である。 統一地方選でのいろんな公約の中に1+1=(無限大)になるような明瞭ではないが、敵を作らず賛同者を広げる言葉が散りばめられているということなのだろう。 逆に、最大効率・最大結果を基本とする環境も、別の”特有の殻”の中で培養されていたのかもしれない。 日本の民主を憂いながら、高齢者の入口にいる私にとっては、これら”特有の殻”と向き合う喜憂も始まったばかりなのかもしれない。



コメント

  1. 匿名5/17/2023

    読み応えのある文章でしたね(^_-)-☆ 腕上げてるやん! 投票率の低さは、ご指摘のとおり、現状是認、現状否定批判的引きこもり状態、無関心➡どうせ・・・  候補者主張のマンネリと実現性の低い公約、などなど。 自分の責任で、物事を変えていくといった考えがあれば最低限棄権はしないと思うが、 「自分はないもできない。しても変わらない。でも、損はしたくない」っていう感覚の人間が多いのかも。 これ、日本以外では、隅っこに追いやられるリスクの高い人種なんだけど、わが国では生き残れるんぢょなー

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