ふるさとは遠き…

再度、立体地図の作成に挑戦することにした。 一作目の失敗は、立体地図の土台に選んだMDF材(雑木を固めたボード)の変形と等高線をなぞる時のズレであった。 そこで選んだ地形が島、ふるさとの島を作ってみることにした。 一つの等高線ごとに完結するので貼り方を間違えなければ極端にはズレない。 MDF材の変形は、MDF材が厚紙の糊付けでの糊の水分を吸収することと、意外と糊付けの引張力が強いことと考え、樹脂(塩化ビニール)ボードにした。 ただ、次の問題発生! 40年以上前だが、最初の会社で今でも恩人と思っている上司の下で機械設計をやっていた頃、塩ビは加工は楽で強度もあるが接着剤がないと言う教えを思い出す。 調べてみると、やはり100円ショップや文具コーナーには今でもなく、ホームセンターでやっと発見した。 接着剤も技術の進歩を見た。 と言うわけで、塩ビ土台と厚紙一枚目の海岸線の接着がプレッシャであり、技術系と称しながら、子供の頃から工作やプラモデルなど接着剤を使う作業が苦手で、作品も手も服もベタベタになってしまう。

例によって国土地理院で地図を購入した。 地図の大半が海でなにかもったいない気がした。 地図を見ていると作成の前に疑問が湧き、まずは調べものから…となった。 地図には海岸線以外に海か陸か不明の岩場の地形が描かれている。 島の子供は当然よく知っている。 海には干満の差があり、顕著な所では数メートル差がある。 定義を調べてみると、これ以上に海面が上がらない、つまり潮に浸かったことがない境界線が海岸線で、これ以下にはならないのが低潮線(領海の定義がここから始まる)ということのようだ。 今回は、低潮線も描きたいと思いなぞってみたが、表現方法のアイデアがまとまらず、素直に海岸線と等高線を使うことにした。 海岸線の地形をなぞると熟知した田舎の風景やエピソード(魚を釣った場所、溺れかけた場所など)が浮かび、これまで苦痛だった厚紙を形取って切断する作業も楽しい。 だが、問題の接着の段で…。 数日間手順を考えながら意を決して挑戦したが、考えることが多いとエラーが発生するという高齢者であること再確認した。 幾つかの島の海岸線を形取り、切断した厚紙に強力接着剤を塗布する作業で、表と裏を間違えて塗布してしまった。 当然形取りからやり直し。 労力の無駄と年寄り実感の二重のダメージを受けながら、数日で蘇ったのはやはり、ふるさとの力だろうか。 もう一つのショッキングな気づきは、一本目(標高10m)の等高線をなぞっただけで、島の形が望外に小さくなり、津波も地球温暖化も他人ごとではなく、子供の頃の生活範囲はすぐに海の底に沈むことになる。 今回の一句は…、

秋夕焼地図でたどるリアスの島
(西の果ての海は夕日が沈む風景が印象的である。 そんな子供の頃の風景とともに当時のエピソードも思い出す。 それら地形、風景、エピソードが地図上のリアス式海岸の地形をなぞることで戻って来る気がした。)

島の西海岸から見える夕日は、かすかな島影として見える島々の向こうに沈む。 なおかつ秋の夕焼け…、つまり、西には偏西風に乗ってくる雲がないということで、昔の人はよく分かっている。 「秋の夕焼け鎌て~で(鎌を研いで)待てろ(待っていよう、明日は畑仕事!)」。 このシルエット、島影の鮮明度で遠近感が分かるところ、オレンジ色の太陽が徐々に大きくなり、島影のシルエットに隠れていくところが美しい。 

私が小学6年生の時に閉山した炭鉱の町なので、当然激しい人口流出があったのだが、実はそれがなくても過疎化の島である。 以前、墓守の話をしたことがあり、似たような話題かもしれないが、改めて書いてみる。 進学のために島を出る人、その進学先を卒業しても島には仕事がなくそのまま都会に就職する人、私同様、島で育った若者達はいつしか東に自分の将来を模索する。 もちろん、島に残る人や戻る人もいるが、大半はそうである。 仕事を持ち、家庭を持ち、次第に方言も抜け、たまに帰省し、ちょっとしか出て来なくなった方言を使いながら、懐かしい風景と懐かしい話を味わい過ごす。 実は東の方では細々と生計を立てながらも、なんとなく”凱旋”的な幸せ感があった。 あれから数十年が経ち、親たちも他界したり、体の衰えだったりで、以前のような帰省はできづらくなっていく。 また、子供たちはその東の方の地に帰省するようになる。 兄弟や親類はまだふるさと周辺にいるだろうが、それぞれの子供や家族があり、またその帰省もある。 もはや、自分たち優先の訪問は、どこまで甘えて良いものか徐々に迷い始める。 子供を見せたい、孫を見せたいが通用するのは、やはり一親等の繋がりのような気がする。 

「ふるさとは遠きにありて思うもの」というフレーズがある。 室生犀星の「小景異情」という詩の一節である。 古文ではないが現代文でもなくこのフレーズ以外は十分解りづらい。 複雑な生い立ちのためか居場所がなく、ふるさと金沢を離れて東京に旅立とうとする時の決意のようなものを書いたと言われる。 それまで生活苦で度々東京⇔金沢間を行き来していたらしいが、この詩以降は金沢には戻らなかったと聞く。 このフレーズのこれまでの印象では、それほど深刻な決意でもなく、ふるさとを離れる人だれでもに共通する感情と理解していた。 この歳になり一親等の繋がりが薄れてくると、犀星とやっと同感覚の思いと言えるものかもしれない。 ただ、このフレーズで誰もが思うふるさとへの感情は、一人で生き抜こうとする”性(さが)”のようなものと、いつも自分の中で葛藤していて、それでいつも”性”のようなものが勝っているところ、これまでを振り返ると何か切ない気持ちになる。 

大学に入学して最初の下宿先は、西日の強い、窓を開けたら障害物がなく田んぼが広がった四畳半で、夕日のシルエットは地方の中心都市の街並みだったような気がする。 夜になると近くを東西に横切る高速道路の車の騒音を聞き、ライトの流れを見ながら、そのだれもに共通する感情に押しつぶされそうになりながらも、何とかもう片方に軍配が上がってきたのである。 この歳になるまで勝たせ続けた結果残るのは、なんとなく孤独感である。 作成中の立体地図を眺めながら、しみじみと読み返してみよう。 「ふるさとは遠きにありて思ふもの…」



コメント

  1. 匿名3/17/2023

    40歳手前で転職するとき、大阪に戻るか、東京周辺に残るかを迷った末、大阪に戻ることにしました。 静岡時代、T君たちの地元とのつながりが、大変うらやましく思えていたことを覚えていたのかもしれませんね。戻れる環境があったことに感謝です。 これからの残日は、残った者達で楽しまないとね! もうちょっと生きて楽しもうね !(^^)! 遊んでね~

    返信削除
  2. 匿名3/20/2023

    元気でいるか、街には慣れたか、友達出来たか、さみしかないか、お金はあるか、今度いつ帰る・・案山子という歌の歌い出しですが、4年の時初めて聞きました。親は、こうやって思ってるのかなーと思ったことを覚えています。長男が、就職で家を離れてもう18年目ですが、この歌の心境ですね。もっとも、我々は、息子の同僚たちが「よく来る親だね~」とあきれるくらいの頻度で訪問してましたから、寂しさはまぎれていたんでしょうが、心配の気持ちは、同じですね。( ^^) _旦~~

    返信削除

コメントを投稿