街の分水嶺

囲碁や将棋の対局の解説を聞いていると、局面の分かれ目で実際の進行とは違う手から派生して別の進行を解説し「これも一局ですね!」という結論で元の進行で解説を続けることがよくある。 ”今の進行でも優劣が付かず接戦だが、解説している別の進行でも優劣が付かない、それなりの一局になる”ということである。 私はその解説の言い回しは好きである。 どちらの結末もみたい。 現に、素人勝負での「待った!」や一局終わってからの感想戦で「こう打っていたら…」と言いながら(ほぼ「待った!」と同じ現象)、また続きの勝負が再開することは多々ある。 「これも一局」と言って終わらせるべきところを…。

スイス旅行に行ったことがある。 スイス南東部(つまりイタリア寄り)の都市サンモリッツから南の山岳地帯に入った辺りで、周りの誰かがいくつか並んだ湖を見下ろしながら、「こちらの湖はドナウ川の水源で、向こうの湖はライン川の水源になっている」と言っていた。 後日、グーグルマップで調べてみたが、ライン川の支流は湖の近くまではあるが、繋がっていることは確認できなかった。 ただ、アルプス山脈の何処かにライン川の源流もドナウ川の源流もあるだろうことまでは確認できた。 それが、スイス南東部の山々の一つの北側斜面と南側斜面なのか、同じ方向に流れた水がどこかの尾根で分けられたのか、地形によって違うだろうが、結論ありきで言うと、このあたりに降った雨は、ライン川となりドイツから凍りつく北海へ流れる雨粒と、ドナウ川となり東ヨーロッパの国々から避寒地でもある黒海沿岸に流れる雨粒に分かれるのだろう。 雨粒からすると「どちらも一局」なのだろうか。 まさに分水嶺である。

日本にも同じように有名な川同士が、分水嶺により別々の海(陸地に分断され、呼び名が違うだけで海は海であるが…)に流れる例がないか調べてみた。 これは楽しい! ”有名”の程度が人それぞれだが…、北海道では石狩川と十勝川と常呂川は道央部の三国峠からそれぞれ日本海・太平洋・オホーツク海に流れ、東北地方では最上川と阿武隈川は奥羽山脈のどこかから日本海・太平洋へ、信濃川と利根川は谷川連峰から、信濃川と荒川と富士川は甲武信ガ岳付近から、同じく信濃川と木曽川は乗鞍岳付近から日本海・太平洋へ流れる。 楽しく調べているうちに当たり前の法則にぶつかる。 日本の中央分水嶺なるものがあり、北は宗谷岬から南は鹿児島県大隅半島の佐多岬までの6000キロにまで及ぶ線で結ばれる分水嶺である。 また、中央分水嶺から知床半島に向かう支線、襟裳岬に向かう支線、鈴鹿山脈から和歌山で急カーブそのまま四国山地から阿蘇山まで続く支線があるようである。 そのような中央分水嶺で水を流すと2方向に分かれ、片方は太平洋側へ、もう片方は日本海側へ(中国・四国・九州では瀬戸内海・有明海・東シナ海等のところもあるが…)ということになるのである。 大体は高い山やそれらを含む山脈の尾根を通るはずだが、厳密に言えば2つの川があればどこでも、その間に分水嶺が存在することになり、中央分水嶺やその支線は代表的な例にすぎないということである。 えらく興味が湧いてきて、年甲斐もなく水筒に水を入れて分水嶺探しに行きたくなる。 水筒の水を流してみて多方に流れる地点で、その水が別々の川にたどり着くだろうところである。 今回の一句「冬散歩街の分水嶺いずこ」(説明はこのブログの文章の中で…)

分水嶺は、言葉の響きもその意味からしても、なんとなくロマンがあるが、実際に探そうとすると坂の上であり、顕著なものになると山登りである。 現に中央分水嶺を調べたのも日本山岳会という団体である。 よって、交通の便を妨げ、雲ですらも妨げているため気象にも影響する、ある意味では厄介なものである。 現に、前述のライン川とドナウ川は源流付近のアルプスではなく、比較的平らなところのドイツから運河でつながっている。 有名な分水嶺を貫いている運河は、パナマ運河くらいかもしれないが、自然の流れでは難しく閘門式運河と呼ばれる人間の知恵が使われている。 日本でも別の意味で人間の知恵で分水嶺を活用している。 江戸時代に作られた玉川上水である。 分水嶺に水路を掘り高低差を使って、付近の農業用水や江戸の街の生活用水に利用したとのことである。 日頃散歩に出かける道を、分水嶺のことを考えながら歩いていると、以前から農業用水として霞ヶ浦の水を吸い上げているとは聞いたことがあったが、水が吸い上げられている場所は、どう見ても付近では一番高く、その地点から尾根伝いに用水路が伸びている。 もしや…? 

分水嶺の資料を探しているうちに面白い本を発見した。 石原慎太郎著「現代史の分水嶺」である。 初版は昭和62年。 元都知事と書くよりも当時は元自民党衆議院議員であったろうか。 さすがは芥川賞作家であり、歯に衣を着せぬ豊かな文章及び真実を見る視点には驚くばかりである。 日本の脳死基準と自給自足できない臓器移植問題、日本の検挙率の異常な高さと警察機構の体質問題などなど、未だ積み残しのテーマばかりである。 鋭い目線の著者が「分水嶺」と警鐘を鳴らす難しい局面から抜け出せないまま、平成という時代が始まり終わってしまったわけである。 水はせき止められたままか! その時代を殻の中で生きてきた私は、それらの問題を薄々認識しながら、(NHKのぬいぐるみの女の子が言いそうな)「ボーっと生きて」きた世代の一人である。

分水嶺は高ければ高いほど、人の行き来を制限し、言葉を分け、文化を分け、天気を分け、国を分け、地域を分け、そこで生きているものの性質まで分けていて、その結果の対比はより明快になり比較する意味がある。 まさに「これも一局ですね!」と評価されることになるが、低いものは「どちらも大差はないですが…」ということになる。 では、自分の人生の中の分水嶺はどうなのだろうか? 進学、成人、就職、結婚、子供、転職、退職、いろいろな節目があり、「ボーっと生き」ながらも思い浮かぶものはあるはずである。 この歳になってしみじみと味わってみるにはいいテーマかもしれない。 暖かくなったら探してみよう! ”街の分水嶺”といっしょに…。



コメント

  1. 匿名1/31/2023

    今回のブログは、小説みたいだ。アカデミックでいいね~!(^^)! 文才が開花したかも!

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