このブログの中で、親が登場したのは何度かある。 囲碁、アルコール、戦争の話など。 私の父親は地方公務員で、真面目で、几帳面で、我慢強く、男は黙って…、というタイプ。 勤務時間が8時30分から5時30分で、決まって5時45分には帰宅した。 大相撲の時期では、結びの相撲は見ることができる時間帯である。 私とは真逆で、私にはマネのできない部分は多く、その変化の少ない生活と考えには、私は若い頃からマネしたくはないと思ってきた。 このブログを始めた頃、以前から本棚の片隅にある手作りの小冊子を改めて読み返した。 父親が生前残した故郷の島のことや自分史のエッセイである。 コピー紙をホッチギスと布ガムテープで製本したような手作りの小冊子。 自分の思いを何かに残そうという意味では、親子似ているのかもしれない。 土地や登場人物の固有名詞が多く、掲載しにくいのだが、掲載できるパートを見つけて紹介してみたい。
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「尺祝い」
「尺祝い」
「尺祝い」と言う言葉は近年聞かなくなった。 私達の青年時代(50年ほど前)には、ラジオで新聞で本でうわさでよく聞いた言葉であった。 「尺祝い」とはそもそも何のことかと言えば、紙幣をきれいに伸ばして重ね、その高さが1尺(30.3センチ)になったことをお祝いしたことを言ったものである。 何故近年その言葉が我々庶民の生活から消えたかと言えば、昔の人のように箪笥貯金をせずすぐ銀行・郵便局に預けるようになったこと、紙幣の単位が大きくなったこと(当時は壱円、五円、拾円、百円であったが今では千円、弐千円、五千円、一万円)などだろうが、要は現金をできるだけ持たないですむ生活形態に変わったからだろう。 では、どんな人達が「尺祝い」をしたのだろうか?
昭和13年(1938年)支那事変勃発により青年層は戦場へ駆り出された。 戦争が拡大するに比例してその度に強まり、元気な男性は1銭5厘の赤色の葉書(召集令状)によって否応無しに出征した。 農家・漁家の働き手がいなくなり労働力不足の上に、産めよ増やせよ・食糧増産と日本は戦時色一色となった。 食料も衣類も配給制度となり、生産者の野菜以外はすべて政府に供出させられた。 この上、昭和20年(1945年)太平洋戦争の終末にともない軍人の幅員、外地よりの引上げにより日本の人口は急増し、極度の食糧不足に見舞われた。 兎に角何でも良い、食えるものは何でも食わなければ餓死である。 従って農家は芋でも麦でも大根でも白菜でも作りさえすればすべて瞬く間に金になった。 漁家もどんな魚でも釣ってくればすぐ金になった。 その金が積もり積もって1、2年の中に1尺になったのである。そのお祝いを公然とするもの、ひっそりと身内だけでするもの、色々合った様だ。 蛇足だが昭和20年代の武内大臣のついた壱円札1尺で3,030円、坂上田村麻呂のついた拾円札1尺で30,300円、聖徳太子のついた百円札1尺で303,000円位あったそうだ。 現在では物価の変動に並行して紙幣も変化し夏目漱石の千円札1尺で3,030,000円、新渡戸稲造の五千円札1尺で15,050,000円、福沢諭吉の一万円札1尺で30,300,000円あるらしい。 私の記憶のある半世紀の間にかくも物価・紙幣価値が変動するものだと愕然とした。
私の家は半農半漁だったので「尺祝い」などは夢にもみないものであったが、健次郎爺さんは大変几帳面な人で、魚を釣ってきて魚市場や仲買人さんに打った時、その代金をして受け取ったくしゃくしゃの紙幣を姉に火アイロンで皺を延ばさせたり、縦20センチ・横10センチくらいの板に挟んで紐でぐるぐる巻きに巻いてある程度(5センチ?)になったら銀行か郵便局に預けていた。 従って何円札であれ、1尺になったものは見たことがない。
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小冊子を作成したのはおそらく1990年代、彼が殻の外の生活を始めてからであろう。 表現しているのは終戦直後の頃。 私のいい加減な表現より几帳面さが出ている。 父親は子供らに…、長男には家を守ることを教え、次男には家の可能性を広げることを教えた。 父親は長男であり、私はその父親の次男である。 私の今が父親の言う可能性を広げたかどうかはわからないが、家を守るために我慢してきたであろう父親には感謝である。 ただ、生き方としては真逆のはずが、文章を見ていると何か共通点を感じてホッとするところがある。 失われつつある日本の昔が、文章から滲んでくるところが面白い。 布ガムテープの小冊子から電子情報として、私のブログに引用してみたいと考えたわけである。 著作権的には子供の一人として引用しても彼は問題視しないと思っている。 戦争の生傷とも言える戦後の動乱、今となっては戦争の爪痕程度になったかもしれないが、いまだに残る戦争の影響。 希望いっぱいのはずの年齢の頃、その生傷の影響を受けながら、黙々と家を守る行動をしてきたのだろう。 私の父親評など語るに値しない。 家を守り、社会を守り、数十年で敗戦国日本を世界2位の経済大国にまで押し上げてきたこの世代! 我々世代は…。 核家族化しその関係も薄く、社会や国やインフラなどの仕組みのリニューアルは遅れ、核の拡散も戦争すらもどこかで続いている。 見習うべきものは多いのだろうと改めて思う。

DNAを感じつるっていいですね~(#^.^#) うちのDNAは、鏡に映る自分が、年々親父殿に似てきていることかなー。 あと、子供のころ、技術屋はスケッチできないと・・・って言われたので、結構絵を描いたことは役に立ってるようですね
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