「終活」という言葉が流行りになってきている。 自分の中で「終活」とは…。 (家族はブログには登場させない原則ではあるが)家族が久しぶり集まった時に、父親つまり私がどの様に生きてきて現在に至るのか、子どもたちはほとんど知らないこと、当時驚いた記憶がある。 都度面白おかしく経験や主義主張を語ってきたはずなのだが、なんとなく伝わり方にムラがあるようだ。 そもそも子供たちは、親が話す、特に父親が話す興味の薄い、説教じみた体験は聞き流すようにできているようである。 話を戻すが、やはり自分の人生の節目の出来事や考え方はあとに残したいと思う。 それから、特別な財産があるわけではないが、預金や住まいの情報、保険や年金の情報など書いておきたい。 最後に、病気になったら…、葬式は…、墓は…、など。 これを自筆で、封印したものを弁護士や公証役場に預けるとか…、「終活」を考えるとこのあたりでギブアップになってしまう。
ネットでいろいろ調べてみると少しずつ開けてきた。 まず、遺書と遺言の違い。 遺書は自由記述、遺言は記載する内容が決まっていて法律に沿って書かれたものである。 遺産相続や血縁関係のことが多いようである。 しかも、残す人と残される人の間に意見の相違がある場合や、法律上の決まりごとと異なる形を望む場合に、遺言書を残す必要があり、それは、自筆、弁護士、公証役場などの手続きが必要となるものらしい。 何事も経験してみたい私の場合は、幸運にも(こんな時、平凡をもの足りなく感じる寂しさ)遺言ではなく遺書である。 それも最近ではエンディングノートというらしい。 エンディングノートつまり遺書は自由記述であるが、推奨されている内容は、本人情報(生年月日、血液型、マイナンバーなど)、自分史、関係する人物との間柄や連絡先、財産、介護・医療、葬儀、納骨、遺言書(有無や保管場所)、となるようである。 遺書を書いておきたいと思う動機づけとなるような話題は、全て含まれメイクセンスである。
先輩や“適齢期”に達してきた同世代の友達と話をしていると、墓の話になることがある。 大きく分けると二つであるが、「自分が入るべき墓があり、墓守りをしている」グループと、「自分の入るべき墓を持っていない」グループ。 私は後者である。 つい最近、墓守り継続中の実家の兄(つまり前者)から墓じまいの相談を受けた。 お寺の敷地内のコインロッカーのような(説明を受けた私のイメージ)納骨堂になるようであるが、子供の頃から家の大事なことは兄に頼り切っている私は、この期に及んで物申すこともなく二つ返事で受け入れた。 “退職後の喜憂”をブログに書こうとしたくらいなので、エンディングノートは書いておきたいと思うのだが、いざ始めようとすると、解決すべきことが二つあることに気がついた。 それは、家族内に意見の相違があるか、お墓の形態(納骨方法)を自分としてはどのようにしたいか、である。 家族内の意見の相違については、意外にもあまり突き詰められていない。 日常的に家族内で意見の相違に気づいたり、それをすり合わせたりする(家族内での)文化がなかったような…。 肉体的に一番強い、外貨(家族内へ流れ込むお金)を持ち込む「建前上の大黒柱」としての位置づけにあぐらをかいてきたというか、意見の相違は話すネタがあるということで、それをウェルカムとして行動していなかったようである。 あとは元気なうちは先延ばしに…。 反省である。
自分の墓の件は、以前、冗談半分で語っていた記憶はある。 海育ちだったので「海に撒いてほしい」とか、「墓石はいらないので木を植えてほしい」など。 当時は、そんな特別な事は、凡人には手が届かない高額な制度であった。 今回調べてみると、「樹木葬」「海洋葬」はもちろん「永代供養」「納骨堂」「個人墓」「夫婦墓」「家族墓」など様々な用語があり、違いがよくわからない。 先延ばしにするくらいなら訪問してみよう! 近くのお寺が扱っている宗教不問の「樹木葬」墓地見学に行ってみた。 最近の墓地は、お寺と石材店とノウハウのある会社との共同経営が多いようで、ターゲットはまさに「墓守り後継不在の墓じまい」か「墓を持っていない」グループ。 墓じまい後整地された墓地内の空きスペースを利用しての商品である。 商品はいろいろあるがコンセプトは似通っていて、納骨スペースを小さくして、墓守り不要(永代供養、契約により期間や保管方法が異なる)、何人分(個人、夫婦、家族など)にするか、である。 北関東では相場が30~70万円程度。 以前のような「樹木葬」「海洋葬」のように個人を特定せず、場所が残らない、なんとなく明るいイメージのものは流行っていないようで、お参り可能なシンボルがあるタイプらしい。 見学した場所は、「樹木葬」という売りであったが、コンセプトは「納骨堂」と同じである。 今後も、時代に合った考え方から新たなトレンドが生まれるのだろう。
ただ、この話題で考えてみると、ここにも日本の大きな節目があるようである。 太平洋戦争で大きなダメージを受けた日本の人口増加策の結果、高度成長期を支えた世代(団塊の世代)は、実家を離れ、無宗教の「墓を持たない」大人たちとなって大都市近郊に居を構えた。 またはその世代は対応したがふるさとを持たない(大都市近郊がふるさと)次の世代で「墓守り不在の荒れ果てた墓」が残った。 墓地も都市移動が進み造成が必要になるのだが、国土の3分の2が森林の狭い生活空間の日本で、墓面積を増やすことは得策とも思えない。 実際、日本の火葬率は99.9%で主要な先進国の50~60%からは断トツで、戦後の政策として狭い国土と衛生面を考慮した政策が取られてきた。 江戸幕府の政策として始まった檀家制度は、キリスト教対策でもあり、上納金で京都の総本山の安定を支え、古都京都を形成してきたが、400年という時代の流れで制度自体が行き詰まっているようである(京都の寺院は参拝料で潤っている)。 江戸時代の土着の農業主体から、明治維新後の工業化、戦後のモノづくりニッポンという変遷の中で…。 最近のテレビの特集で、檀家数が減少した地方のお寺の廃業の話題を見た。 事態は深刻である。 私の「終活」の話題から、日本の寺院、檀家制度の話にまで進んでしまった。 で、私のエンディングノートの二つの課題…。 現時点では、もう少し時間が必要という結論にしておこう。 無理に我を通さず時流を受け入れて自然に還りつつ、エンディングノートも改編を重ねながら完結?するものかもしれない。

お墓の問題は、先々の子孫を考え、どうあるべきか・・・ 1.家族の集合場所 2.オリジンンの在処としての意味合い 3.家族の思い出を引き出す場所 4.宗教的シンボル
返信削除〇〇宗 なる作法で先祖をお弔いする方法は人が起点になっているかと思うと、ありがたいお話や、死後の世界観も人が創作したものでは・・・・ なんてかんじてしまうわたくしですので、現存のお墓詣りのほかの行事は熱心に行っていません。なんと、それには母も同意しているという環境の中、現存の母を大事に見守ることに集中して、自分のことを考えていませんでした。 宗教的シンボルを外すと、家族の集約は、お墓以外の場所でもいいのかなーと思ったりします。 自分は、子供たちの記憶の中にとどまっていたらあとは何もいらないかな~ 僕の代でお墓詣りは無ということにして、あの世で先祖にお詫びすることにしょうかと考えていたりします。