しかしながらそのお陰で、自分自身、いやゲームというものを改めて分析出来てきたような気がしている。 ゲーム本来の目的(囲碁であれば相手よりも自分の石で囲った地が多いほうが勝ち)を忠実に実行するためには大局観が必要で、その大局観が非常に優れている人がいる。 いわゆるアウトボクサータイプである。 ゲームの始まりは誰でもそれを望むわけだが、ゲームの中でこのままでは劣勢になることを悟ると、乱戦に持ち込まなければならなくなる。 いわゆるファイタータイプになるわけである。 乱戦になるとオーソドックスな進行が崩れ、考えることが多くなりミスをした方が負けになる状態ができ、勝機が見えてくるのである。 不幸にも、ネット囲碁のお陰で私はそのタイプであることに気付いてきた。 団体のハンディキャップでレベルが下の人にも大局観で負けていてファイタータイプにならざるを得ないのである。 ちょっとショックである。 大局観は客観的な判断と経験で培うもののような気がするが、乱戦は選択肢が多くなるため読みが重要で、読みの深さと細かなツボ(定石とか囲碁では石の形)を覚えることだと思っている。 つまりは、客観的な判断を好む人と読みの深さを好む人がいるということである。 なんとなくではあるが、相反する好みのような気がする。 プロとは違って、囲碁をする時間・囲碁のことを考える脳みそのスペースが限られている以上、どちらかに偏ったゲームの進行になってしまう。
ネット囲碁の味気ない電子音ではない、生の石の音が恋しくもあり、コロナ禍に単身赴任先から戻って初めて近くで碁会所を探すことにした。 ”常連しかいない喫茶店”のような碁会所のドアを恐る恐る開くも…、いかにも強そうな、不愛想な(ゲーム中では不愛想になるのはよく分かる)私と同じくらいの歳のファイタータイプの白熱した対局中、ちょっとひるんでその日は観戦だけで終了。 ファイターの石の音は高かった。2ヶ月程前の創作活動「風の音」のイメージの続編。 一年前に作った「風の音」という詩に曲を付ける作詞作曲活動。 私の場合は、詩から曲のイメージを考え、コード進行を考えながら曲全体の構成を作り、和音に合わせてメロディを付け、全体を再調整する。 今回は曲全体の構成である。 私は起承転結を思い浮かべるようにしている。 起は始まりでA、承は起をサポートするA(起と同じようなフレーズ)、転は結をサポートするB、結は言いたいことでCとする。 歌と漢詩では多少違っていて、承転が曖昧だったり、結のあと起に戻ったりするが…。 例えば童謡「チューリップ」は、A咲いた咲いた…、A並んだ並んだ…、Cどの花見ても…、というAAC、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」はAABC、ゆずの「栄光の架橋」もAABCの曲である。 今回の「風の音」は、曲をつけやすくするために以下のように詩を修正した上で、曲の構成をCABCとすることにした。 ちょっと変則的であるが、曲の始めと終りは縄文時代の素朴さを表現し、中間は現在の生活を表現した。 あとは、曲のイメージが湧くまで聞き、思いついたところからメロディや伴奏を考え、コードや歌詞を直しながら、曲が完成するまで繰り返す。 経験や技術が追い付かないことは十分承知の上で…。
人の営みの証も やがて景色に溶ける
明日を重ねながら 時は流れる
C 疲れかけた心に 風の音が聞こえる
”できることは あるだろうか
誰でも歌を作れる時代である。 コード進行を聴きながら、口ずさんでみるだけでも楽しい気持ちになる。 最近私は晴れた日に散歩しながら、何かを考えたり、決めたり…。 思いついたら、スマホのメモ帳に録音または文字を残しながら…。 興味があれば「風の音」を作ってみませんか?
石の音(囲碁)も、風の音(音楽)も、聞くときには今できる100%のつもりで臨みたい。 それ以外のあらゆる趣味や一度やってみたかったことを体験する時も…。 時間が有り余っていても、脳のスペースが有り余っていても、無駄に過ごしたいときの方が多い。 経験や技術がまったく足りなくても、体験しないより体験する自分をほめたい。 体験の幅を増やしたい人もいれば、体験の深さを増やしたい人もいる。 どちらでもよい。 歳を取ってからは、焦らず、悩まず、恥ずかしがらず、サボりつつ、楽しく、100%で、やるときはやりたい。 まだまだできることは無数にある。

風の音、詩の趣旨がいいですね。( ^^) _U~~ 人の歴史の中の1コマである自分の人生が、命つなぐ者たちに、少しばかり役に立つことを願って、ささやかに残日を楽しみながら、のびのび暮らしたいね。
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