「なかよし」について…

 ロシアのウクライナ侵攻は長期化しているようである。 ロシアの大統領は「ウクライナのナチ化からロシア系住民を救済する」ために侵攻しているようである。 そもそも、20世紀特に第二次世界大戦以降はソ連、中国などの社会主義の国々と資本主義の国々との朝鮮半島やベトナムをはじめとする仲たがいの歴史とも言える。 日本の戦後間もない頃も、GHQの指導の下「民主的な」国家作りを行ってきたが、途中からは「共産主義」拡大の阻止に重きが置かれた節がある。 素朴な疑問である。 なかよく共存できないものだろうか?

関連しそうな用語を調べてみる。 民主主義:人民が主権を持ち行使する政治、専制主義:支配者が独断で事を決する政治、軍国主義:戦争を外交の主たる手段とする政治、独裁主義:政治権力が一人に集中し国家を支配する政治、君主主義:一人の支配者が統治する政治、資本主義:お金を持った経営者が従業員を雇い利益を得る社会システム、社会主義:国が国民の給料や財産を管理して平等を実現しようとするシステム、共産主義:貧富の差のない究極の平等を実現しようとするシステム、など。 ついでに、国の名前になっている用語。 合衆国:2つ以上の国家または州が同一主権のもとに連合してできた単一の国家、連邦:州や共和国などの複数の支分国が単一の主権のもとに結合して形成する国家、王国:君主として王が統治する国家、共和国:国民が主権を持ち直接・間接的に選ばれた元首や代表者が一定期間ごとに国を治める国家、など。 意識して、政治、システム、国家と使い分けてみたが、それぞれ政治形態、社会システム、主権を表現している。 ほぼほぼ同じ意味を表しているものは、民主主義と共和国、合衆国と連邦、専制主義と独裁主義(王国も考えようによっては同じ分類)である。 社会主義と共産主義は、同じような分類に感じるが、資本主義が進化した形が社会主義で、人類の究極の社会システムは共産主義と唱えたのがカール・マルクス。 「戦争を知らない子どもたち」の(戦後の米国寄りの教育体制で育ってきた)私は、民主主義の資本主義に一票なのだが、大衆の欲求を満たすことが正しいことかどうか、利益を得るためには地球が壊れてもよしという価値観でよいのかどうか、と考え始めると、ある程度国が計画する体制で、大衆の欲求を満たすだけではない(なんと呼べばよいかわからないが)特別な勉強をした人?に国を託す方が理想に近づくのかもしれないと思ったりする。

 そう考えながら、社会主義の国を見てみると、その多くは共和国または「人民」という言葉が国名に入っていて、主権は国民を思わせる。 理想に近づけるべき社会システムとマルクスも唱えているが、実現のためには、平均以上のお金持ちや地位の高い人達から平均以下の階級の人達へ、恵まれているものが平準化され、それが持続されることが必要で、政治基盤が盤石でなければならず、専制主義・独裁主義に近づかなければならないように見えてしまう。 ちょっと横道にそれるが、第二次世界大戦の前の日本は君主主義・軍国主義であったのだろう。 イタリア・ドイツは、共和国の形態の独裁主義・軍国主義であろう。 その意味では、今回ウクライナ侵攻を行っているロシアも同じである。 しかし、ロシアはウクライナを“新”ナチスと呼んでいる。 理解しがたい! しかし、社会主義の究極の理想を追い求めるシステムそのものは、貿易や文化交流の面では、なかよく共存することに問題はないように思われる。 問題は、理想に向かう道のりの長さと盤石な政治基盤を維持するために様々な工夫が必要で、そのことが国家ぐるみで、国内外の主権を脅かす行動に出たり、武力に物を言わせたり、不公平な貿易になったりしやすいことだろう。 

戦時中の国々では“プロパガンダ”という「意図をもって、特定の主義や思想に誘導する宣伝戦略」を使って、国民を同じ色に染めていく。 短期ではマスコミ統制なのだろうが、長期では教育“改革”ということだろう。 その意味では、前述のように社会主義の国は社会システムを改革するためにその傾向は強いかもしれないが、どんな国でも、マスコミも教育も多少は「…主義」に傾いたメッセージを主権者国民に提供し続けているかもしれない。 戦後の日本でNHKはGHQのお抱え放送局だったそうだが、未だにそうでないとは言い切れなかったり…。 他の放送局は視聴率優先の、大多数好みの放送を流していたり…。 知らず知らずのうちに何処かに誘導されているかもしれない。

哺乳類に属する人間は、いつからか他の動物と違って、自分のやりたいことを制御することで繁栄してきた。 人間のDNA的には自制する価値観があるはずである。 プロパガンダに打ち勝つ価値観が存在するはずである。 ただ、自身の中で結論が簡単な方に流されやすい自分がいることも事実である。 「なかよし」という言葉がある。 定義を調べてみると中途半端で、堂々巡りになる。 その中でキーワードかと思えたのは「お互いに迷惑を掛け合いながら幸せを感じている」という表現に出会った。 心地よく頼り合えることが必要なようである。 その状態を長く続けるためには自制が必要であり、心地よい迷惑というカードを切り続け、切られ続ける管理が必要ということだろう。 話が難しくなりすぎて、管理不能に陥りつつも、今回のテーマで二つのことを感じた。 良いことも悪いことも相手への強い思いや期待を自制して管理できなければならないこと、マスコミや噂に流されずに人間本来の価値観を思い出すこと、である。 すべての人と「なかよし」である必要はないが、「なかよし」のゾーンを広げる制御は人類一人ひとりの努力の範疇であるはずである…と思う。





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コメント

  1. 匿名5/29/2022

    子供のころの仲良しは、特別なケースを除いて、社会的地位や、経済力に関係がない純粋な人同士のつながりであることが多いですね。だんだん、社会対応が必要になり経済活動に組み込まれると、ある意味、総合的に見て似た環境下にあることがうっすらと仲良し継続の必然になっているような気がします。 国家間においても、総合的に見て一方的でない関係性が健全な仲良しにの継続につながるし、反社においては力の均衡が緊張感の中で表面的仲良しが維持できるように思います。

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