お題は…冬のオリンピック


 コロナウィルスの影響で、2年おきに開催されるオリンピックが変なリズムになっている。 昨年が夏季・東京オリンピック、今年になったばかり半年しか経っていないのに今度は冬季・北京オリンピック開催である。 スポーツ観戦はほとんど大好きである。 ただ、冬季は雪上、氷上のスポーツである。 私は九州生まれである。 年に数回、数センチ積もる雪で、雪だるまならぬ”土だるま”を作るのが楽しみである。 雪合戦をすると玉不足になり、徐々に小石が混じって痛い! でも楽しいのである。 何回か前のオリンピックに、熱帯の国のボブスレーのチームが登場し話題になったが、ほとんどの九州人も同じである。 初めてスケートをしたのは高校以降、スキーは未だに経験無しである。 

 逆の自慢話もしておこう! 島の人たちは泳ぐのは基本得意である、と思われがちである。 しかし、島の子どもたちの中では、私は泳ぐのは不得意の部類であった。 そもそも、島では早く泳ぐものでもなく、顔を水につけない状態で浮いていることが要求されるのである(命を守る、獲物を取る意味で…)。 小学校のときはプールはなし、中学ではプールはあったが海水プール。 高校で都市部の高校に通ったのだが、一年の夏、学級対抗水泳大会があり、島育ちということでリレーの代表に選ばれてしまった。 一生懸命拒んだが(この状態での多数決は何か不公平であり、むしろ延長線上にはいじめの第一歩のような気さえする)、選出されその上第一泳者。 確か25mプールだったが、無我夢中でクロールノーブレスで泳ぎ、ダントツのトップで泳ぎきった記憶がある。 島育ち恐るべし! 島の特異性を改めて知り、それ以降は泳ぎの劣等感は払拭されこの歳に至る。

 オリンピックでも3歳からスキーを始めた高校生や、15歳にしてバレエや器械体操を経験したフィギャアスケーターなど、生まれ育った場所、環境、心身の鍛えられ方、と幼いうちに出会ったものに才能を見出したプレイヤーは多いだろう。 レベルはう~~んと下がるが、楽器を初めてまもなく、ほとんどの優れた演奏家たちは、物心付かない幼い頃からその楽器と出会っており、心技体のバランスは幼いほどよいと知り、私もせめて幼い頃にピアノかバイオリンに出会っていれば…という後悔? 自分ではどうにもできないので後悔ではなく、まさに”残・念”なのである。 当時の我が家では、環境的に無理だったと思う。(中学生の頃ギターを始めた時でさえ、音が外に漏れまわりのお年寄りからは不良の始まり…とかで、大変だった記憶がある。)  「人は誰でも他よりも優れたものを持っている」とよく言われるが、今でも私は楽観的にそう信じている。 ただ、物心付かない時から、つまり親が与えたものが子供の才能に火を点けるとすると、親の役目はかなり重要である。 自分の”残念”な思いからか、自分の子供たちには何とか親の義務を果たそうと、水泳とピアノ、あとは子供がやりたいことには習いごとの機会は与えたと思うが、才能に火が点くことはなかったようである。 親というものは大変なものである。 不遜な言い方かもしれないが、子育てという初めての体験でのこのテーマは、トライアンドエラー数回きりの実証実験なのである。

 考えてみると、人間の行動パターンには、脳からの指示で動いているケースと脳からの指示がなくても動いているケースがある。 私の中では、前者は目的を持った行動、後者はとっさの行動と理解している。 以前ラジオで聴いた興味深い話。 脳から末端の筋肉への指示は電気信号で伝わるようであるが、プロの脳と一般人の筋肉をつないだ実験(私が聞いたのはギターを弾かせた実験)では、脳の指示に筋肉がついていけず、痙攣を起こしたとか…。 つまりは、プロの脳とお付き合いをしたことがない筋肉が指示通りには動けなかった…、心技体のバランスが取れていないということである。 私の低レベルの体験の例は、例によって自分ができないところをDTM(パソコンで作る音楽)に任せて…なのだが、自分が弾いたことがない楽器を心地よく表現するのには限界があることを感じる。 脳のイメージが未経験すぎて楽器の音色の特徴について行けないのである。 幼い頃から、自分の脳と自分の体を使っての反復練習を継続することで、心技体のバランスが保たれ、かつ、イメージや感覚も磨かれて行くのだろう。 さて、とっさの行動について…。 感覚的に理解できるのは、危険に直面した時にとっさに体を守る行動をすること。 生命体であるから…。  脳との信号のやり取りの遅れを防ぎ、知らず知らずのうちにショートカットする機能を生命体?は持ち合わせているのだろう。 そのショートカット機能は、生命の危険でなくても、反復練習を積むことで、様々な行動でも活用されている気がする。 たぶん、脳と筋肉(または細胞)の信頼関係が阿吽の呼吸に達しているということか? 私にはそれを感じる機会があまりなかったということである。

 オリンピックに話を戻す。 幼い頃からの反復練習と経験で心技体のバランスを磨いてきた人、それだけでなく、普通の子供として育ちながらもどこかのタイミングで、自分が打ち込めるものに出会い懸命に努力を重ねてきた人、どちらにしても、極限のトレーニングを積んできたことにより、高度にバランスの取れた心技体を持ち合わせた人たちがオリンピアンなのだろう。 そんな人並み外れたオリンピアンたちが競い合うところに意義がある。 まさに近代オリンピックの父と言われるクーベルタン男爵の「オリンピックは参加することにこそ意義がある」である。 近代オリンピックの始まり1896年、明治・大正の時代である。 日本では、まだ着物主流、自動車も飛行機も普及前、ITという言葉すら…。 そんな時代に意義を見いだされたスポーツの祭典。 100年余経過し、技術革新による道具・素材が生み出され、美しさの評価は心のフィルターにより多様化し、選手の心技体の作り方も変化し…。  今はルールや検査で対処して、ギリギリ「参加することにこそ意義がある」祭典として楽しませてもらっているが…。  2096年(200年後)…、“AIを駆使したムキムキ筋肉マンの祭典”は見たくないなぁ~~!!



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