私とアルコールの付き合いは長い。 いくつかの思い出はある。 小学校に上る前、おばちゃんの家に母と遊びに行った時の話。 田舎ではお茶菓子の代わりに漬物がよく容器に入って茶の間に置かれていたが、子供の頃私は漬物は嫌いだった。 その日は梅酒を作るときに漬けた梅が容器に入っていた。 もちろんアルコール漬けである。 大人二人が用事で茶の間を離れている間に、その梅を味見し、大変美味しく、5~6個立て続けに食べた。 戻った二人は容器の中の残り少なくなった梅と私の赤い顔で、事情を理解した様子であったが、アルコールには寛容で二人で大笑いしていた。 小学生の頃、父は勤め先では管理職だったと思うのだが、たまに、若いお兄さんたち(たぶん部下だと思われる)が、家の近くの数件だけの飲み屋街で飲んだ後、よく訪れていた。 その日もにぎやかな数人、なぜか一升瓶を持ったご機嫌なお兄さんが、田舎造りの玄関から土間へと続く玄関の敷居につまずき、転んでしまった。 ちょうど“お出迎え”をしていた私はその情景、忘れることができない。 つまずいたお兄さんは、顔から倒れ込んで土間で強打した模様、右手の一升瓶を高く挙げて一升瓶を守った。 顔はみるみる腫れ上がり、そのお兄さんは帰るまでお酒を口にすることなく顔を冷やしながら寝ていた。 子供心に、アルコールとは自分を犠牲にしても守り抜くほど大切なものなのか、と思った。
茨城県には牛久シャトーと呼ばれる名所がある。 明治時代に日本の洋酒普及に貢献した神谷伝兵衛が作った国産ワイン工場である。 山梨県甲州市とともに、日本遺産?に指定されているようである。 レンガ造りのテーマパークのような佇まい。 展示館、ショップ、レストラン、野外バーベキュー会場があり、つくば万博の頃(1985年)から親しんでいた。 途中営業していない時期もあったようだが、今も市営で営業を続けている。 JR牛久駅からも徒歩圏内、駐車場も広い。 神谷伝兵衛の時代には、甘くないワインは日本人の口には合わないとされ、蜂蜜を混ぜた蜂ワインというブランドで売られていたようである。 甘いワインと言えば、赤玉ポートワインが有名であるが、蜂ワインよりも後にサントリーの前身によって販売されたハイカラな飲み物である。 神谷伝兵衛に戻る。 “神谷”と“ハイカラ”と言えば、浅草1丁目1番地の神谷バーがある。 神谷伝兵衛はもともと浅草で酒の販売をしていた。 “電気ブラン”と呼ばれるブランデーのようなブレンドのカクテルが人気で、今も通の方々に愛されている。 当時は、“電気”自体も新しい流行りの単語だったらしく、“ハイカラ”の象徴であった。
そんな私も「酒に後ろを見せなければならない」こともやむを得ない! 量的に弱くなってきた! その上、50歳前後になると生活習慣病問題! ご飯1杯か缶ビール1缶かの究極の選択(ほぼ同じ150キロカロリーなのである)、それにジョギング30分であと2缶追加できる。 当時はすべての摂取・消費カロリーを缶ビールに換算していたような…。 インターネット囲碁対局で気がついたことがある。 パソコンの向こうの相手のことはよくわからないが、アルコールを飲むと(言い訳ではなく)勝率が著しく落ちることである。 やはり、注意力、読みなど、必要な要素がちょっとアルコールが入るだけで麻痺して来るのだろう。 この年になって生き方や生活パターンを変えることは困難だと思うので、これまでもお世話になってきた、胃腸、肝臓、腎臓を労りながら、摂取・消費は缶ビールに換算しながら、「酒に後ろを見せない」程度に囲碁の勝率もちょっとだけ上げられるような、アルコールとの長く、適切な付き合い方を続ける。 この究極のバランスでコントロールすることは、“情熱”と呼べるかもしれない。
顔を強打しながらアルコールを守った情熱もあれば、ワインと洋酒の普及に捧げた情熱もある。 私のアルコールは、彼らのそれとは程遠いが、長崎の田舎では息子が酒を好きなのはよし、あえて突っ込んで言うと、息子が酒に飲まれるのもよし、な社会感があった。 その姿勢のまま、学生時代のほとんどの私の友人は、「酒に後ろを見せない」仲間意識から始まり、そこから考え方や趣味へと広がったような気がする。 社会人になり今日まで、恥ずかしながら、アルコールは自分の生き方や生活パターンに影響大であることは確かである。

平静な心を保つための、メンタルヘルス治療薬としての位置づけになってきました。2日に一度、家庭内居酒屋を開店し、平和な家庭環境の維持に努めています。 酒の空き瓶がモニュメントだった風景が懐かしいですね。我が家の居間の現風景は、チップとデール、ミッキーとミニーと家族写真が取り囲む、おとぎの国になっています。
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