「日本人とユダヤ人」(著者イザヤ・ベンダサン)という本がある。 高校時代に誰かに教えてもらった本である。 この頃は世界のことが実感できておらず、活字に目を通したにすぎないが、心のなかにその後消えることのないギャップが残った。 「日本人は安全と水は無料で手に入ると思い込んでいる。」 確かに喫茶店で最初に出てくるコップに入った水! それが常識ではない世界が存在するということ。 当時は電話自体も一家に一台あるかどうか、飛行機にも乗ったこともなかったが、後になって考えると、私のグローバル化の始まりだったかもしれない。 その後、物理的には新幹線・高速道路・飛行機など、情報的にはパソコン・携帯電話・インターネットなど、私の位置と遠い所との距離や時間は徐々にリアルタイムに近づいて行く。 ただ、物理的なリアルタイム化と比べて、人間の中での常識の更新プロセスは、体験と理解を伴い、人それぞれである。
以前米国に滞在したころ聞いた話で、自分も体験してみて違いないと感じてしまう話がある。 狩猟民族と農耕民族の話。 もちろん、日本人は農耕民族である。 住居や耕作地の場所が変えられないため、生活の中で自分を主張することを控えて、集団生活に近い、善意な言い方では”助け合い・迷惑をかけない”、悪意な言い方では”嫌われない・見えないルールに縛られ”、生活する。 狩猟民族は、住居や狩猟地の場所を変えながら、自分に合う場所を探すため、集団やルールに縛られず、自分を主張する。 反面、初対面でも相手が好意的かどうかを見分けるためか、挨拶をし、よく話す。 道で見知らぬ人とすれ違うのに、
Hi!とかHow are you?という習慣は今も残っていると思う。 日本人には鬱陶しいときもある。 面白い場面を想像してみる。 西部劇で見知らぬ街の大衆酒場のスウィングドアを開け、主人公が中を見渡しながらカウンター近くで横の先客と言葉を交わしながらグラスを干すシーン。 日本の飲み屋だったら、見知らぬ人には背中を向け関わらない。 絵にならない! 日本の稲作集落に狩猟民族が住み着いたら、上流の水を必要なだけ自分の田んぼに引き入れ、苦情が出ても、「そんなルールあるなら見せてみろ! 俺は水が必要なのだ!」。 会話が成立しない!
「そんなのは属性による固定概念だ! 個性によって違う!」と言われるかもしれない。 確かに「郷に入れば郷に従う」かどうかは個性かもしれないが、生活習慣に起因
していることは、性別や血液型などの属性と違って、個々人の差として片づけられないところがあるような気がする。 私の経験を幾つか挙げてみる。 外資系の会社での出来事。 米国本社に部品を注文し、確認の連絡を入れても本社担当から返答がなかったため、米国人の上司の状況の説明要求に、「お前は何回催促したのか?」という思いがけない質問が…。 私の中ではしつこい催促は逆効果と判断したのだが、私が職責を全うしていないという結論になってしまった。 責任と自己主張の考え方が違う! また管理職になった後日本人部下への評価の時、「あなたの○○という行動は分かるが、△△を実行した方がよりよいと思う。」というコメントをしたら、〇〇を肯定した上で△△を提案するのは部下へ混乱を招くとして、上司としてどちらか明確なメッセージでなければならないということに。 よく言われる”結論を先に…”である! これらは我々日本人が他国のパターンを知る事が必要なケース。 ただし、こんな例もある。 外国人と一緒に活動してみると日本人は最も信頼される国民のようである。 言葉の障害もあるかもしれないが、話し合いの時は余り自分を主張せず、攻撃的にならず、蚊帳の外にいるようなイメージを持たれることもあるが、実際に活動を始めると、真面目で黙々と成果を出す傾向にあり、メンバーの中でも一目置かれるようになる。 これは日本人が自らの長所を知ることが必要なケース。 これを長所と見るか短所と見るかは個性かもしれないが…。
私としては、農耕民族的な日本人の文化は好きである。 相手の意見や行動を全否定せず、認めながらもよりよい方向を探す。 法律や明文化したルールはなくても、周りのことに配慮しながら、自分の立ち位置を決めて行く。 狭い国土で限られた資源を共有するときには、この行動は必要なのではないか。 言わば、人口増加・資源不足の中の理想形がそこにあるのかもしれない。 その行動ができない人は、日本では「村八分」になるわけだが、現状見ていると、世界の主流は日本のような思考回路や行動パターンではないため、日本が何かと「村八分」に近い状態にあるような気がする。 現実に戻る。 コロナワクチン不足問題が発生している。 マスコミの報道によると、当初は明文化した契約の有無、その後は供給総数と細分化した供給スケジュールの問題。 内情は分からないが結果だけ見ていると、私の当時の米国人上司だったら、非常識なくらいに催促しない日本が悪いと一喝されるだろう。 コロナ禍でのオリンピックはどうだろうか。 開催賛成・反対はこのブログのテーマではないと思っているが、私としては意外な方向に進んでいる気がしている。 想像したのは、趣旨を理解したら、独自のやり方で真面目に成果を出す日本、他国から信頼・尊敬を受けている日本である。 競技場デザイン・シンボルマーク再入札、ジェンダー発言、コロナ禍での開催方法、無観客、開催直前まで続いた延期論・中止論などなど、世界から見た日本感は大きく変わったのではないか。 通常は余り変化に直面できないが、今回のコロナ問題やオリンピック問題など非日常的な環境の中で、我々日本人が、世界のパターンを知り、自分たちの力量を知り、グローバル化の中で自分たちの立ち位置を再確認できていないことが顕著に現れているような気がする。 このままの状態でグローバル化しようとすればするほど、西部劇の大衆酒場のスウィングドアをおどおどと開く自分たちの映像、場違いな映像になってしまうような気がする。 我々は、狭い国土と限られた資源の中で、独自の”明文化されていない”ルールでも整然と活動できる、信頼・尊敬されている国民であるはずだが…。 グローバル化の難しさを思いつつ、日本選手のメダルラッシュを期待しつつ、明日もテレビ観戦が楽しみである。
外国語での会話は、現地の文化や、習慣になじまないと、教科書や、スピードラーニングだけでは成立しにくいという経験をしました。 アメリカで会議をすると、最初から話が展開していったとき、
返信削除最初から、なぜ最初から結論に変化があったかを、時系列に沿って説明しながら反芻してから最終結論を言わないと怒り出すことがあります。日本国内で話の展開を理解している前提でのさらなる話が簡単ですが、アメリカではそうはいきません。その代わり、合意したことはきちんと守り、不都合があるとまた話し合うという合理的な文化だと思います。あ、うんや忖度 は無いのでしょうね。