2017年12月社有車での外出の帰り道、京都市伏見区内で目に入った立て看板に心が騒いだ。 ニュースで他界されたことは知っていたが、「端田宣彦告別式」の道案内の看板。 私からするとよく知っている人で立ち寄りたかったが、ただのファンの一人…、業務中でもあり諦めた。 中学の部活終了後ギターを手にして以来、私の中の京都は、大学と音楽と自由!のイメージがあった。 憧れの地「京都」であった。 その中心にいたのが、端田宣彦の所属していたフォーククルセイダーズであった。 50代後半になって縁あって京都に再就職することになっていたが、観光地としてのみんなの憧れの地「京都」&仕事をする地「京都」で暮らしていた。
私の憧れの地以外、つまり、みんなの憧れの観光地「京都」を題材にした歌は多い。 私の年代では、チェリッシュの「なのにあなたは京都へ行くの」、渚ゆう子のベンチャーズの曲「京都の恋」や「京都慕情」などが思い出されるが、歌謡曲の中でもギターの音色が聞こえるようで、私の歌のジャンルとまだ近い。 コテコテの歌謡曲及び演歌の世界では、美空ひばり「祇園小唄」、愛田健二「京都の夜」、京都出身の演歌歌手都はるみの「千年の古都」など、聞けば分かる曲。 なぜか覚えていて口ずさんでしまうフレーズ…「冨士の高嶺に降る雪も~♪ 京都先斗町に降る雪も~♪」「京都~♪ 大原三千院~♪」「京の五条の橋の上~♪ 大の男の弁慶は~♪」、諸説はあるものの宇治からの幕府への献上物を歌った「茶壺に追われてトッピンシャン~♪」などなど。 やはり「京都」である。 「京都」を離れる前の週末の京都土産の買い物で、鴨川の近くの京都一の繁華街である四条河原町付近の店を探索し、扇子、西陣織グッズ、手ぬぐいを購入した。 やはり口ずさんだ歌がある。 「加茂の流れにうつる~♪ あなたのすがた~♪」かぐや姫の名曲である。 歌詞だけ見ていると、グループ系フォークか歌謡曲かの区切りがわからなくなっている。 若い時にグループのボーカルだった歌手が後に歌謡曲(演歌)歌手になった例も多い。 ジャンル分けのナンセンスを感じながらも、フォークを特別視したい理由があるような矛盾をずっと感じてきた。 詩・曲・歌・演奏・コーラスまですべて自前で行い、素人っぽさがあり、気軽に参加できそうなイメージがあるところだろうか。 詩や曲の創作では感性に訴えることができ、歌や演奏では完成度を感じることができる。 伴奏もコーラスも用意され音程キーまでお任せ状態のカラオケの歌とはわけが違う、と思ってしまうのである(楽器を弾かれる方は、転調の難しさをご存知と思うが…)。 フォーク特別視感は、ギターを始めた時からのギターを弾けることを主張したい思いと呼応して、なにか“必要のない”優越感のようなものを生み、私は音楽を素直に楽しむことを意識的に停止させている気がしている。
音楽の楽しみ方は人それぞれであろうが、確かに感性と完成度を感じながら聴くことは多い気がしている。 感性については、単純な好き嫌いも当然あると思うが、自分がその音楽に接したいと思う状態から来るところが大きいと思う。 じっくり聞きたい時、一緒に歌いたい時、情緒的な気分の時、仕事やドライブのBGMの時、様々である。 以前は「一緒に歌いたい時」が多かったようである。 ここが特別視感に繋がっているのだろうが、今はバリエーションが増えている気がする。 また、最近DTM(パソコンで作る音楽のこと)にハマっていることは以前のブログで紹介したが、パソコン上に録音・保存してみて痛感するのが、完成度である。 楽器でもDTMでも技術は、以前にも書いた「サボりたい気持ち」の連勝状態では、期待できない。 とすると、完成度を決めるのは、「こんなもんでいいかぁ~」という心の叫びに打ち勝ち、忍耐強く「ストウイック」に音を追及することである。 (完成度)=(技術)x(ストウイックさ)である。 技術力のあるプロは、その技術ゆえに「ストウイック」であるのだが、技術のない人でも、その技術を「ストウイック」でカバーすることはある程度できるのではないか。 楽器でも歌でもその両方でも、童謡でもクラシックでも、弾き語りでもカラオケの歌でも、感性の違う曲でも、完成度が高い音楽は誰にも気持ちよさを与え、その「気持ちよさ」を作り出すという行為は”すごい”のである。 「シニア予備軍(50代後半)の仕事探し」のおかげで、京都再発見とDTMに触れる機会を見つけ、私の偏った音楽観を改めて感じることができ、ジャンルに固執しない音楽の素直な楽しみ方を思う。


セッションやコーラスは楽しいよね。でも、やってて楽しいと、聞いてていいよねの間にはちょっとだけスキルの問題が横たわってるかなー。本人たちが楽しいけりゃいいようなもんだけど、騒音にはなりたくないもの・・・ 音楽が先か、不純な動機が先かは永遠の謎かな~😭
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