偕楽園は日本三大庭園の一つ(他は岡山後楽園、金沢兼六園)、梅木100種類3000本、開花の時期は毎年早咲き1月中旬~遅咲き4月上旬。 梅まつりの期間中の2021年3月12日訪問、今年はちょうど満開であった。 小冊子では、コンセプトは「陰と陽」であるが、私はあえて「静と華」としたい。 大きく分けると、大杉森・孟宗竹林、見晴広場(好文亭という館あり)、名物の梅林ということになるが、見晴広場(小高い広場)からは、千波湖と園周辺一面の梅花を含めた景色を眺望できる。
徳川御三家の一つ水戸藩は、頼房が初代、それ以外で後世に名を残したのは、2代当主あの光圀と、15代将軍慶喜の実父10代当主斉昭である。 まず、光圀は例の水戸黄門、諸国を行脚し、悪い大名や代官を懲らしめるというのはドラマの世界だが、「大日本史」の編纂を始めた(助さん格さんのモデルになる諸国への聞き取りをした学者は実在)。 大日本史はその後明治時代まで編纂が続けられ、日本の歴史、即ち、天皇の歴史→儒教→尊王(攘夷)の思想では、幕末に強い影響を与えた。 斉昭は、大日本史編纂での逼迫した財政の改善、人材登用など藩内改革を実施、偕楽園(民ととも(偕)に(楽)しむ庭園)や当時日本最高峰の藩校弘道館を作り、諸国の見本となった。 その一方で強硬な攘夷派であり幕府を悩ませた。
徳川御三家の始まりは徳川家康で、重要地域に自分の子供を配置した。 水戸藩は北の大名の警戒であった。 徳川家康には20人の妻と16人の実子(11男5女)がいる。 正室と長男は武田(信玄)と通じているというスパイ容疑で織田信長の命で自害させられ、その他政略的養子縁組や家康の好みなどから、結局、徳川2代将軍は3男秀忠、尾張藩に9男義直、紀伊藩に10男頼宣、水戸藩に11男頼房。 9男~11男はそれぞれ1601、2、3年生まれで、あの家康も1600年関ヶ原の戦いまでは安泰ではなかった様子、頼房は家康62歳の子供である。 その後、秀忠の子孫は7代家継まで続いたが、8代吉宗は紀伊藩出身。 非常に有名だが将軍職はわずか4年間。 その後13代家定までその系統が続き、14代家茂は再度紀伊藩出身。 吉宗は後継ぎ問題が相当にキツかったのか、9代家重以外にも田安家と一橋家、家重の時代にも清水家を、大名でも旗本でもない役職を持たないただの家族(御三卿と呼ぶ)として江戸城内に住まわせ、“何かの時”要員を仕組み化した。 15代慶喜は水戸藩出身だが養子先の一橋家から将軍になった。(最も格上の尾張藩からは結局将軍はいなかった。)
表門から”静”の大杉森、孟宗竹林を抜け、”華”の梅林をゆっくり鑑賞して、1時間半。 梅まつり期間中以外は入園及び駐車場も無料。 名物の梅の和菓子を食べながら、見晴広場に立つと、豪腕斉昭の民とともに楽しもうとした一面を垣間見ることができる。 民を思い、国を思い、世の中を変えなければと思う気持ち、(僣越ながら)なにか解るような気持ちになった。

ええとこやなー('◇')ゞ まさか、一人で行ってないよね・・・(-_-)
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